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確かにわたしが最初の第一声を発したのだろう。落としましたよ、と言ったので。
だから、わたしから声をかけたと言われたらそれは間違いではない。
その時は名前も知らなかったが呼びかけられた千寿が振り返り、そしていま生まれたばかりの赤ん坊が産声をあげるかわりに「ウォーター」とでも叫んだのを聞いたかのような顔でわたしを見た。
「ええと、うん……まあ、そうかもしれないんだけど……」
千寿はしどろもどろに意味のない単語をつなぎながら、わたしと自分が落とした小さな平べったい棒を受け取らないまま見比べるようにしていた。
そしてしばらくの不思議な間の後、わたしもようやく気が付いた。千寿はアイスの棒を落としたのではなく、大学の校舎をつなぐ中庭の通路の植込みの影にそっと捨てたということを。
余計なお世話だったというやつだろう。わたしはやっと理解してゴミ箱を探すべく、そのまま踵を返した。
「あ、ごめんごめん。俺がもらうから。ええと綾瀬さん?」
けれど急いで後ろから千寿が追いかけてきたので、今度はわたしが怪訝に眉をよせる番だった。
大学に入学してまだ二か月だ。今まで顔も見たことない人物に名前を知られているというのは捨てたごみを拾われるより驚くことだろう。
残念ながら、たった二か月で有名になれるような容貌にも才能にも恵まれはしなかったのだから。
わたしが不審そうにしていたせいか、そこで千寿は自分の名を名乗り、わたしと同じ学部の同級生だということも明かした。
言われてもまったく聞き覚えのない名前だったし、記憶を探っても顔に見覚えもなかった。
「まあ、そこそこ人数いるしねー」
千寿はとくに気分を害した風もなくあっさりと笑った。
「でも、綾瀬さんは目立たないことで目立つから」
だから三ケタを超える程度の学生がいてもわたしの名前を知っていたのだと。よくわからないことを千寿は言った。
とにもかくにも、実際はさておいてもそれが喜多千寿という同級生とわたしが初めて出会ったと言える日で、そこから彼と不思議な付き合い方をしていくとは予想などできるはずもなかったのだった。
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