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その前と後とでは、まるきり違う光景。
決定的瞬間。
アメリカ版のブレッソンの写真集のタイトルを、
玲子は思いだした。
いま、決定的瞬間によって、
違う世界が焼きついたのだ。
彼は巻き戻ったフィルムを無造作に、
ラックの引き出しに入れた。
それから玲子の持ってきた清潔な下着を受け取り、
汚れものの入った紙袋を渡した。
いつもの日常が戻ったかに、見えた。
だが、生活は変わらないのに、
色あいだけが変わってしまったと玲子は感じる。
それは了一も同じだったかもしれない。
彼の普段の優しさも、だらしなさも、
なにひとつ変わらないように見える。
家にあまりいないのも、同居のはじめからだ。
なにが違うのか玲子は注意深く観察したが、
色合いとしか言いようのない、ものなのだ。
それが再び、始まったのはこのころだった。
玲子ちゃん。
了一と暮らしていても、ときどきその声は追ってくる。
叔母の可奈の声だ。
玲子ちゃん。お注射をしましょう。
彼女は玲子の手をとり、ナイフを腕に当てるのだ。
す、と見事に赤い筋が盛り上がる。
玲子は自分の生理がこないのは、
毎日、こうやって血を抜いているからなのだと、
信じていた。
実際に可奈は言うのだ。
汚い血を抜かないと、全身、巡ってしまうのよ。
だから、みんな、毎月、血を流すの。
でも、玲子ちゃんは毎日、抜かないと追いつかないから。
いまでも、ときどき、血を出さないといけない気がして、
いてもたってもいられなくなる。
水谷と暮らしていたときも、血を抜いていた。
彼には見つかり、女優なのだからやめてくれと、懇願された。
だから、しばらく、その習慣は途絶えていた。
叔母の声はいつまでもついてくる。
了一に知られないようにするのは、難しいことではなかった。
彼の留守は多いのだ。
バスルームでそれは行う。
深くなりすぎないように。ひどい傷にならないように。
ほうら、綺麗になった。
血が流れると眠くなる。
安心するのだろう。
了一はなにかを書きかけて、眠ってしまったらしい。
ペンが落ち、インクの染みがソファに広がっている。
いつものようにコーヒーは必ず、
最期のひとくち分、残していた。
仕事がひと段落つくとき、
彼は必ず、マンションに戻ってくる。
玲子が眠っているあいだに、帰ってきたようだった。
手首の新しい傷を隠すために、
大きめの絆創膏を探して、貼り付けた。
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