第1話

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その前と後とでは、まるきり違う光景。 決定的瞬間。 アメリカ版のブレッソンの写真集のタイトルを、 玲子は思いだした。 いま、決定的瞬間によって、 違う世界が焼きついたのだ。 彼は巻き戻ったフィルムを無造作に、 ラックの引き出しに入れた。 それから玲子の持ってきた清潔な下着を受け取り、 汚れものの入った紙袋を渡した。 いつもの日常が戻ったかに、見えた。 だが、生活は変わらないのに、 色あいだけが変わってしまったと玲子は感じる。 それは了一も同じだったかもしれない。 彼の普段の優しさも、だらしなさも、 なにひとつ変わらないように見える。 家にあまりいないのも、同居のはじめからだ。 なにが違うのか玲子は注意深く観察したが、 色合いとしか言いようのない、ものなのだ。 それが再び、始まったのはこのころだった。 玲子ちゃん。 了一と暮らしていても、ときどきその声は追ってくる。 叔母の可奈の声だ。 玲子ちゃん。お注射をしましょう。 彼女は玲子の手をとり、ナイフを腕に当てるのだ。 す、と見事に赤い筋が盛り上がる。 玲子は自分の生理がこないのは、 毎日、こうやって血を抜いているからなのだと、 信じていた。 実際に可奈は言うのだ。 汚い血を抜かないと、全身、巡ってしまうのよ。 だから、みんな、毎月、血を流すの。 でも、玲子ちゃんは毎日、抜かないと追いつかないから。 いまでも、ときどき、血を出さないといけない気がして、 いてもたってもいられなくなる。 水谷と暮らしていたときも、血を抜いていた。 彼には見つかり、女優なのだからやめてくれと、懇願された。 だから、しばらく、その習慣は途絶えていた。 叔母の声はいつまでもついてくる。 了一に知られないようにするのは、難しいことではなかった。 彼の留守は多いのだ。 バスルームでそれは行う。 深くなりすぎないように。ひどい傷にならないように。 ほうら、綺麗になった。 血が流れると眠くなる。 安心するのだろう。 了一はなにかを書きかけて、眠ってしまったらしい。 ペンが落ち、インクの染みがソファに広がっている。 いつものようにコーヒーは必ず、 最期のひとくち分、残していた。 仕事がひと段落つくとき、 彼は必ず、マンションに戻ってくる。 玲子が眠っているあいだに、帰ってきたようだった。 手首の新しい傷を隠すために、 大きめの絆創膏を探して、貼り付けた。
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