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それからペンを拾い上げる。
キャップは床を探しても、見つからなかった。
油性のペンだから、ソファの染みは落ちないだろう。
イタリア製の白いソファは玲子が選んだものだ。
家のなかのもので、
了一みずから選んだり買ったものはない。
ここに彼の持ち物は、ほとんどないのだ。
いや、ひとつだけある。
彼が肌身離さず持っている、コンパクトカメラだ。
カメラ自体は大切なものではないだろう。
よくなくしたから、買っておくように頼まれることも多かった。
デジタルが出てきても、彼はフィルムにこだわった。
そのくせ、撮り終わると適当に箱に放り込み、
いっぱいになると捨ててしまう。
「どうして」と玲子は訊いたことがある。
「定着させることに、ほんとうは興味がないのかもしれないな」
少し考えて了一は言った。
「定着」
「シャッターを切った瞬間に、もう終わっているんだ。
頭の中に一瞬とどまって、過ぎ去る……」
「だから、プリントは誰かに任せるの?」
「そうだな。言葉にすると、そういうことになるが……
実はよくわからない」
眠っている彼の横にも、カメラはあった。
小鳥。
青年の彼の声をふいに思いだす。
結局、自分を撮った写真のことを、訊きそびれていた。
長塚了一の写真は、本や展覧会でたくさん見ている。
どちらかというと、荒々しく、
触れると手を切りそうな質感の写真だ。
彼が撮った自分は、どんなものなのだろう。
玲子の肉体はいつも、空気に馴染んでいない気がしていた。
醜い異物が世界にまぎれているような……。
彼はどんな風に撮ったのだろう。
見たいような、恐ろしいような気がするのだ。
彼がペンのキャップを握っていることに気づき、
玲子はてのひらをそっと、開く。
気づかれないように開いたつもりだったが、
了一は身じろぎをし、眩しそうに手の甲を瞼に押しつけた。
「玲子、ただいま」
「おかえりなさい」
優しくて、だらしない了一。
脱ぎ散らかした靴下。
しわだらけのシャツ。
インクの染み。
残したコーヒー。
了一のいる光景が目に焼きつく。
あの日、変わったはずの色あいが、
ほんの少し、以前に戻った気がした。
どうして、この人と抱きあえないのだろう。
玲子は初めて、そのことが哀しくなった。
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