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「それもあるし、生活全般ね。
彼は放っておくと食べないし、寝ない。服も着替えない。
世話をする人が必要だった。
了一の母親が亡くなったあと、
水谷が私を引き合わせたのは、そのせいだったと思う。
勧めたのは直接ではないし、
結婚をしたのは偶然に近かったけれど。
あれは、水谷の意思だと、了一も感じてた」
遠い目で彼女は笑う。
「夢中になったのは、私だけ」
そういうと僕をようやく、見た。
「結婚生活で私がやっていたのは、
ほんとうにただの世話係。パーティの同伴者。
それ以上のことは、何も」
そう言いながら、なにかに気付いたように、
そして、意外そうに、言葉を止めた。
「そうか。もしかして、あなたも
プリンター以上の何者でもなかったの?」
彼女の言葉は、僕にとってふいうちだった。
自分でもそう、言ったことはある。
実際にそんなものだろうと、自覚もあった。
そのなかでも、先生の作品を理解して、
うまく焼いているほうではないか。
それは自負という、傲慢だったのかもしれない。
プリンターとして以上の認識は、
先生のなかには、なかった。
それは、初めて聞いたかのように、
衝撃だった。
衝撃は、玲子さんが泣いていたときから続いていた、
奇妙な甘美さを打ち砕いた。
僕は、玲子さんを、優越の目で見ていた。
そのことにも気づいてしまった。
僕は、先生の作品の、すべてを知っている。
僕は、先生の心の、すべてを知っている。
玲子さんにはわからないだろうけど、
先生が撮影したものかそうでないかくらい、
当たり前のように区別がつくのだ。
あの、長塚了一を理解しているのは、
僕だけだ。
なんて、傲慢だったんだろう。
ただの、プリンターのくせに。
かわいそうに。
玲子さんがそういったわけではないのに、
彼女がふわりと抱きしめてきたとき、
聴こえてきた。
玲子さんではなく、自分の声なのかもしれない。
甘い植物の香りが包み込む。
「ねえ、私たち、どうしたらいいのかしらね」
その声に、さきほどまで僕が感じていた甘美さが、
玲子さんへ移ったのを悟った。
でもこれは優越、ではない。
共感だ。
昔から知っていたかのような、親しさ。
「了一のいない世界をどうやって、
生きればいいのかしら」
それは産まれたばかりの、僕の問いでもあった。
ほかのアーティストのプリンターになる?
藤井さんみたいな職業的なカメラマンへ?
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