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陽の水谷、陰の長塚って、言われてた」
百合子は、なにかを思い出すように、笑った。
「でも、長塚くんとは、あまり話したことはなかったのよね。
無口でなにを考えているかわからないし」
そう言ったときの彼女の表情は、
まるで学生時代に戻ったかのように、
少女めいた憂い顔だった。
玲子に視線を戻すと、母の顔に変わる。
「そうそう。結婚して間もないころ、
うちにはよく、来ていたのよ。覚えていない?
あなたを撮りに来てた」
「え、わたし?」
「珍しい小鳥でも見つけたみたいに、撮るのよ」
「小鳥……」
「覚えていないか。ほとんど、隠し撮りだし」
「え」
「あのころ、よく、庭で踊っていたじゃない」
娘を見て「気がふれた」と言った父の言葉と一緒になった、
痛い思い出だ。
「あれをね。撮っていたの」
撮られていたことは、
まったく覚えていなかった。
だが、家の前であった印象的な出来事は、
覚えていた。
小鳥、という言葉が、引き金となって、
一瞬の出会いが鮮やかによみがえる。
「小鳥」と誰かがつぶやいた。
真夏だった。
見上げると、白いシャツを着た青年の額から、
汗が落ちた。
外国人みたいな風貌で、
目がぎょろりと大きく、怖かった。
しかも、その目は自分を見ていながら、見ていないような、
あるいは、もっと奥をのぞかれているような、
肉をえぐるような視線だった。
玲子は動けないまま、
その汗が地面に吸い込まれるのを見ていた。
濃い影。
うるさいほどの、蝉の声。
自分も汗をかいていて、
長袖のブラウスがはりついていた。
ブラジャーをつけていないけれど
大きくなった胸はこすれて、痛かった。
そして、恥ずかしかった。
青年はもう一度、「小鳥」とつぶやいた。
あれが、了一だったのか。
訊かなくては。
そう思ったときには、もう、とらわれていたのだろう。
水谷抜きで、ふたりで会いたい。
その願いは思いがけない形で、
かなうことになった。
芸術祭でドイツに行っていた水谷が、
死んだのだ。
ホテルで、ひっそりと。
次の日には水谷が戻ってくるという、
真昼のことだ。
彼の部屋の掃除をしていると、
ドイツから電話があった。
ともに芸術祭に行っていた、
彼の友人でもある俳優からだった。
「水谷が倒れた」
彼も相当あわてていたようで、
「ブルガダ症候群による心室細動らしい」
と玲子は聞かされた。
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