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児嶋は巌を診察室へ誘導し、二人は廊下を挟んだ隣の部屋へ入って行った。待合所の千代は冷めてきた甘酒を千夏に飲ませている。
「あまぁ~い」
砂糖は貴重で、酒粕自体も滅多にお目にかかれない代物だった。
戦時下では麹でさえ作ることを禁止されていて、初めて口にする美味しさに千夏は舌鼓を打った。
重湯や芋粥とは比べ物にならない程、甘い。
児嶋は比較的裕福で闇市で物資を買うこともできた。また、お金が払えない患者からは着物や壷などの物をもらうことも多く、特に物に困った様子はなかった。
ただ戦時末期になると薬だけはどうにも手に入らず簡単な処置を施すしかなかったが、それでも人々の助けに充分なっていた。
児嶋医院には元々何人かの看護婦が働いていたが戦況悪化につれ、故郷に帰る者や命を落とす者が増え、ついには児嶋一人になり、辞めようとしていたところに千代が現れた。
目眩を訴える彼女を診察、栄養不足による貧血と判断し、少しの食糧を分けた。そうしているうちに週に数回訪れる彼女に惹かれ、次第に親しくなった。
三十分程で巌の診察は終わり、待合所に巌と児嶋が戻って来た。
「今、できる限りの治療は行ったよ。火傷自体は大したことはない。長きに渡る栄養不足のせいで治りが悪いだけだ。ただ、腕は私にはどうにも・・・・・・」
千代にそう話しかける児嶋。疲れた表情の巌の上半身には真新しい包帯が巻かれてある。
「いいえ・・・・・・児嶋先生、充分です。・・・・・・・・幾分か楽になりました・・・・・・」
巌は頭を下げ、左手に持っていた外套を広げるようにして自分の背中に掛けた。それを千代は落ちないよう手助けしている。
「本当にありがとうございます、児嶋先生・・・・・・これは治療代です」
お金をいくらか渡し、千代は千夏を連れて玄関へ向かう巌を追いかけた。
児嶋はその彼女の後ろ姿を恨めしそうに見ていた。
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