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「早く仕事ができるようにと、こうやって練習をしてる。それともお前は俺に働くなと言うのか?」
「そんなことは言ってません・・・・・・ただ物を大事に使って欲しいという意味です。それに、こんな朝早くからやらなくても・・・・・・」
「夜は傷が痛む。それと、字は書かなきゃ上達しない」
「今は千夏もいるんです。一人家族が増えて、今まで以上に物が貴重なんです」
「だからといって俺に当たるな!物が不足して生活が苦しいのは皆どこも同じだろう?金が必要なのは百も承知だ、だからこそ字の練習をしてる!」
苛立ちを見せながら巌はそう返すと同時に腕が痛み出した。
「それともお前は、俺が邪魔とでも言うのか?」
「そんなことは言ってません!」
「・・・・・・じゃあ、何だ?」
痛みに俯かせていた顔を上げると、千代は泣いていた。
「巌さん・・・・変わりましたね・・・・・・」
「何?」
「・・・・私の知っている巌さんはもっと・・・・・・優しい人だったのに・・・・」
それに巌は口を固く結んだ。この数年間の地獄が頭の中に過ぎり、返す言葉が見当たらなかったのだ。
些細な口論さえ昔はなかった。
日本がまだ貧しくなる前の話だったとはいえ、もうその時の自分ではないことを巌も自覚していた。
千代の言葉は鋭く胸の奥を突き刺し、戦地から戻ってきたことを巌は後悔し始めていた。
午後になると巌は布団に横になっていた。散らかした半紙も硯もそのままにしてある。
様子を窺おうと開けた障子の隙間から、身体を捻らせて千代は部屋に入った。
「もう・・・・・・」
畳に正座をし、半紙を一枚一枚拾っていった。そのどれもが字にはならず、何が書かれているのかも分からない。机の上にはやけになって筆を走らせたであろう半紙が数枚あった。
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