Ⅱ ~近所のお姉さん~

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 今回のこともそう。 「あんなに引っ付かれたら、なんか困る」  エレベーターでのことを思い出し、ヒナは顔を顰(しか)めた。 「樹くんは何がしたいのかな?」  考えてみるけれどすぐに答えなど出るわけもなく、口から漏れるのは溜息ばかり。  ヒナは纏まらない思考を一旦頭から切り離し、勉強机から窓辺に立てかけられたキャンパスへと視線を移す。イーゼルに置かれたキャンパスに手を伸ばした。 「あと少しで完成かな」  キャンパスには抽象画が描かれていた。  タイトルは『太陽と狼』。  母に見せたら、『太陽も狼もどこにもないじゃない』そう言って笑われたけれど、ヒナの目にはちゃんと太陽も狼も見えていた。 「太陽はこの緑の中にあって、狼もちゃんと黄色の、このウズの中にいるのにね」  ――――美術の河居先生は凄く褒めてくれるんだけどなあ。  ヒナは、早く仕上げて先生にまた見てもらおうと、豚毛で作られた画筆を握り直した。  木製のパレットから、先ほど作った色をキャンバスへと重ねてゆく。  その瞬間から、ヒナの顔がまるで別人のように変わる。  普段とは全く違う、鋭利な眼差しに甘さの消えた真剣な表情。  よく喋る口は一切言葉を発さず、ただ黙々と、ひたすらに、作業に没頭する。  この日、ヒナは久しぶりに大阪から帰宅した母親に、10回ほど『晩ご飯出来たよ』と声を掛けられたが全く気付かず、11回目にキャンバスごと無理矢理奪い取られて、やっと気付くことが出来たのだった。
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