2643人が本棚に入れています
本棚に追加
/207ページ
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「ねえ樹くん。なんか絵、描いてみて?」
夕食後、ヒナの自室で、樹は「はい」と手渡された真新しいスケッチブックを受け取った。
樹は苦いものを口に含んだみたいな顔をして、イヤイヤそれを受け取ったのだが。
「絵は、本当に苦手なんだよな。あ、そうだ。ヒナが手本見せてよ」
全くやる気のない樹は、ヒナに丸投げした。
「あそこにある描きかけの絵。あれ描いてよ」
樹はイーゼルに立てかけられたキャンバスを指差す。
ヒナは困り顔でキャンパスから樹に視線を移した。
「え? でも、私、描き出したら周り見えなくなっちゃうから」
「知ってる。それを見る方が勉強になるから」
早くしろとばかりにヒナを促す。
ヒナは「仕方ないなあ」と嘆息して、言われるままキャンバスに向かった。
すると、すぅっとヒナにスイッチが入る。
描き出したらヒナは周りが見えなくなる。
樹はそれをよく知っていた。
真剣な顔で、ヒナは筆に色をのせてゆく。
流れるような動きでキャンパスに色を刷くヒナの真剣な姿は、とても綺麗だと樹は思う。
「ヒナ?」
名前を呼んでみた。
返事はない。
ヒナのボケーッとした表情がキュッと締まり、まるで別人みたいに雰囲気までも違う。
「この集中力は賞賛に値するね」
ヒナの隣に椅子を持ってきて座った樹は、じっと彼女を観察し始める。
「ねえ。ヒナはあの美術教師が好きなの?」
答えは返ってこない。
分かっていて質問しているのだけれど、聞こえていないことが樹を素直にさせた。
今日、登校時、樹は見たのだ。
仲よさそうに談笑しながら、あの髭面の美術教師とヒナが寄り添うように歩いている姿を。
ヒナが男に対して興味を抱く姿を、樹は初めて見た。
頭の中が白く溶け落ちるような衝撃に息が詰まり、呆然と立ちすくんでしまった。
次の瞬間、驚愕が怒りにすり変わり、そして、激しい悋気(りんき)の熱が身体中を炙るようにして駆け巡った。
……絶対に許せないと思った。
最初のコメントを投稿しよう!