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記憶。
稽古場の真ん中に、絢人は、ひとり立たされている。男の冷やかな声がその場を支配する。絢人の心臓が音を立てる。
「俺の言うことを聞かないやつには、教えてやることなど何もない」
目の前に立った大柄の演出家は、冷やかな目をして絢人をねめつけた。そして絢人の背後にまわり、腕で絢人の細い首を絞めるようにかき抱き、耳元で囁いた。
「俺の元に戻って来るか? 今ならまだ許される。相応の罰を受ければな」
首に回された腕の圧迫に息が詰まる。背後の男の力は強く、逃れようともがいても男の腕も体もびくともしない。やめて――。
目を覚ますと現実だった。アパートの庇を叩く雨の音に、絢人は泣きたくなった。雨までが自分に追い打ちをかけているようだ。部屋はいつもより一層薄暗く、枕元の時計をみると午前八時五分を指している。
身体はだるく起き上がるのはつらかったが、夢の続きを見るのが怖くて絢人はベッドを出た。
夢というのは、なんて厄介で不可解な現象なのだろう。ただの幻影のはずが妙にリアルな顔をして絢人の感情を揺さぶりいたぶる。夢はいつも意味ありげな容貌をしている。
春になっても、絢人のアパートは冷気がそこかしこから忍びこむので、朝晩はまだ寒い。電熱ストーブをつけ、温かいお茶を淹れようとやかんを火にかけた。
そして机の上に置かれた携帯を手に取る。待ち受け画面には何のメッセージも表示されていなかった。
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