希 望

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「どうぞ」  少しの躊躇いを見せて優子は黒の丸椅子に腰を掛けた。その様子を窺いながら神戸も向かい合わせの椅子に座った。 「‥‥‥お母さん、恐らく私の事はご存知ですね」  神戸は神妙な面持ちで話し始めた。 「とても‥‥言葉では言い表せない事をしてしまったと感じています。それがどんな理由であろうと、目の前の事実を否定する気はありません。罪を免れたとも思っていません。非難の声が上がるのも当然の事だと‥‥‥」  今自分が知っている言葉で何を伝える事ができるのか、神戸は頭が破裂しそうな程に考えを巡らせた。 「その後の手術で、とても不安を感じていらっしゃると思います。‥‥ですがこの六年間、私も必死に学び直しました。もう二度と同じ事を繰り返さないよう‥‥‥医者としての務めをこの身に刻んで‥‥」  刻んでという言葉と同時に神戸は左腕をそれとなく押さえて俯いた。右手の小指に目を向けると、神戸は何かを思い出して再び顔を上げた。 「それと‥‥菜乃香ちゃんと約束しました。‥‥‥僕はこの手術に命を賭けて挑むつもりです。これは自分自身に対する戒めだと、彼女が私に今一度の機会をくれたと‥‥‥」  神戸は最後にしっかりと目を合わせたが、優子が目を背けた。 「‥‥‥私には心臓手術がどれ程大変なのかも、医者というものがどれだけ過酷な仕事なのかも知りません。ただ、世の中は病院側を悪く言う傾向があります。事実の隠蔽だとか、カルテの書き直しだとか。‥‥世間の人たちは神戸先生を‥‥良くは思わない方たちが沢山います」  優子は下に向けていた視線を神戸に戻した。その目は鋭く、それでいて温かみのある、母としての眼差しだ。 「‥‥‥口では何とでも言えます。私は神戸先生を信じたい気持ちが全くない訳ではないんです。ただ‥‥自分の子の事を考えると、自分以上に大切なんです。‥‥‥少し時間を下さい。明日には答えを出したいと思います。だから‥‥‥」  神戸は静かに息を吸い、息と一緒に言葉も吐いた。 「分かりました。待ちましょう‥‥‥もし、どうしてもというならば、担当を変える事も可能です。なので、遠慮なさらずにおしゃって下さい」  医師に感情はいらないといった様子か、今は誠意を示そうと彼の中のそれはすっぽりと抜けてしまっているのか、神戸は淡々と話す。
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