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”水くさい”と言うほど長い付き合いではないが、毎日一緒に仕事をしているし、翔琉の一件で、沙和子は類に多少なりとも心を開いていた。
「…言ってくれればいいのに」
それと同時に、側にいたのに気付かなかった自分に少し腹が立った。
病院に到着すると、沙和子の非力さを見るに見かねた運転手が、手を貸してくれた。
類の両脇を二人で支えて病院の中へ入る。
類は、自分が今どこにいるのかもわからない様子で、肩を借りながらふらふらと歩いた。
中に入ると、看護師が二人がかりで診察室に類を連れていった。
沙和子が運転手に礼を言い、会計を済ませているうちに、中に入った二人のうち一人が戻って来た。
「こちらに記入して持ってきて下さい」
問診票とボールペンを手渡された時、沙和子は初めて、自分が問診票に書ける情報を持ち合わせていないことに気がつく。
住所はおろか、類の名字すら知らない。
「どうしよう…」
先ほど、タクシーの中で類のポケットから落ちそうになったスマートフォンを預かったままだったことを思い出し、沙和子は自分のバッグの中からそれを取り出した。
通話履歴を開いて、『濱中哲司』をタップする。
哲司を深夜に叩き起こすのは心苦しかったが、緊急時なので仕方がない。
5コール目で、哲司の声が応答した。
『…はい』
寝起きらしく、声が小さい。
「もしもし、私です」
類だと思って出た電話の相手が沙和子だったことに哲司は驚いた。
『…どうした?なんかあった?』
「…あの、類さんが急に熱を出して、帰り道だったし慌てて救命センターに連れて来たんですが」
沙和子は近くに人がいたので、声を一段落とした。
「私、住所どころか、類さんの名字も知らなくて…」
『…今類は?側にいる?』
「あ、今はもう、診察室に」
沙和子がそう言った途端、哲司は「まずい」と呟いた。
「え?何がまずい…」
訊き返した沙和子の質問は、哲司に最後までは届かなかった。
診察室の方から物が倒れるような大きな音が聞こえ、それとほぼ同時に出入口から、患者用に用意されているキャスター付の丸椅子が飛び出してきた。
椅子は、ものすごい速度で廊下を転がると、白い壁に激突した。
薄暗い廊下に衝突音が反響する。
「…え?」
沙和子は何が起こったかわからず、倒れた椅子を見つめたが、その後聞こえてきた類の怒鳴り声で我に返った。
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