砂丘に花が咲くように

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 この街に来てから、俺は毎日しっかり糠床をかきまわしている。数日怠れば人体に悪影響を及ぼす雑菌が繁殖して腐敗が始まってしまうから、忘れるわけにいかない。幸いなことに、ほとんど毎日いらいらするできごとが起きた。それを思い返して、ぐるぐるいじり倒した。手のひらに粘液が深く絡みつくと心が落ち着いた。  糠漬けが広まったのは江戸時代前半と言われている。ご先祖様が編み出した食材保存の方法だ。そして俺にとっては精神安定効果もある素晴らしい発明なのだ。  その日、俺はふと、どうしてこんなにも落ちつくのかという疑問を思いついた。習慣だったからこそ、その点について気にしたことが無かったのである。  作業を続けながら自分に問いかけ続けて、やがて高校二年のときにいなくなった彼女のことが思い出された。俺は糠漬けを彼女に言われて始めていた。何年も、俺の前に現れていない彼女との、唯一の繋がり。それが糠漬けなのである。  思いついて、俺は俄然力強く糠を捏ね繰り回した。隆起が繰り返され、そのたびに彼女の影が頭の中でちらつく。イメージする彼女は未だに高校生のまま。  あんなに美しい人がそばにいたと言うのに俺は無気力に何をしていたのだろう。何と愚かだったのだろう。やる気は枯れ果てたといいつつ、そんな憤りだけは一丁前に成長していた。 『――こちらが今朝発見された現場です――』  テレビから流れてきた音声が、そのとき耳に届いた。いつの間にかニュース番組に変わっていて、今日起きた事件等を再編集しておさらいしているようだ。画面にはこの街のとある公園が映し出されている。今朝から流れているある事件の映像だ。俺は興味を抱いて、意識を向けることにした。  スタジオに画面が映り、眉根を顰めたコメンテーターが唸り出す。となりにいた女性アナウンサーはやっとのことで言葉を見つけ出した様子だった。 『いったいなんなんでしょうか、あれは』 『いやあ、正直わけがわかんないんですよね。どうして急にコンクリートが陥没して“砂地”になってしまったのか』  荒唐無稽な話だが、事実である。映像は全国ネットで流されているし、いたずらだという情報も聞こえてこない。  県内の国立公園周辺の道路が、今朝突然陥没して砂だらけになったのである。公園の砂なのではないかという話もあったが、それにしては量が多すぎるらしい。
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