嘲宮論理と春の夕暮れ。或いは既知との遭遇。

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部室は桜並木を越えた向こうにある。 4月。既に花は散り、葉桜が青々と茂っている。桜の花びらはまだアスファルトに散見されて、時に用水路に滞っていて、彼はその未練がましさも嫌いではなかった。 文化系サークルの立ち並ぶ、一連のプレハブ小屋群の最奥に彼の所属するサークルはある。 会員は現在彼一人。本当はもう一人いたのだけれど、諸事情により現在は彼が唯一の会員であった。 昨日降った雨でぬかるむ地面に足をとられないよう気を付けながら、彼は財布から部室の鍵を取り出す。と、小銭の入った一角に引っかかって出てこないそれを出す必要がないことに彼は気が付いた。 部室の鍵が開いている。これ見よがしに、横開きの戸がほんの僅かに開かれていた。窓も開けられ、風の通り道が出来ているのだろう。 質の決していいとは言えない遮光カーテンが、風にたなびき舞っている。 靴脱ぎ場に靴はない。はて、と彼は前回部室に向かった日、すなわち昨日のことを思い出す。自分は鍵を閉め忘れてしまったのだろうか。 曖昧模糊。自分がいちいち鍵をかけたかかけてないか等ということは思い出せない。かけたような気もするし、ただ絶対かけたかと自問自答すると、絶対という言葉をその頭には付けることが出来なかった。 しかし。よしんば鍵をかけ忘れていたとして。 まさか窓を開けっ放しにした上に、戸を開けたままにしておくようなことはない。 不意に一陣。葉鳴りの音を伴う風が吹く。 彼は、春期休業の間切る猶予の無かった長めの髪を鬱陶しげな手で押さえた。 女子に間違われるほどの長さのそれは、こういうことがあるたびに彼の視界に嫌でも入り、その日の事を思い出させるスイッチとなる。 脳裏にヴィジョンが映り込む。 笑顔の男性。拒否反応のノイズ。ザッピング、柵。そして、落体。 引力に引かれるよう虚脱感が全身を覆う。足から崩れ落ちそうになる。清純な空気を全身に循環させて、そこが高地でも、そして自由落下運動の最中でもない、足のつく地であるということを彼は身体を使って思い出す。脂汗が垂れる。 フランスの哲学者・ベルクソンの提唱するところの身体的記憶。 彼の或る強烈な経験は、本来反復を旨とするそれをただの一度で刻み込ませていた。 襲い来る純粋知覚に眼前への関心が薄れたのだろう。 或いは死への恐怖には何物も叶わないと踏んだのか。 彼はある種無計画に、部室への扉を開いた。
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