嘲宮論理と春の夕暮れ。或いは既知との遭遇。

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室内は、まるで血だまりのようだった。 遮るものの何もない真っ赤な西日が屋内全体を染め上げる。星の運行表を、埃を被った望遠鏡を、予備の暗幕を、先代がふざけて作った粗末なプラネタリウムを。春先の、まだ肌寒さを残した風が彼の頬を撫でる。 ソレは、何でもないようにそこにいた。 部屋の中央に鎮座する、金属質な長机。 腰かけて、その肉付きの良い足の片方、踵を机に乗せる。半体操座りともいうべきその姿勢は挑戦的で、蠱惑的だ。黒を基調とした全体にタイトなその服装は彼女の豊満な体型を強調している。 決して膨満でなく、しかし部位の自己主張は激しい。遮光器土偶という言い方は彼女に失礼だったがアニミズムを信奉していた時代には、きっと彼女のような存在を豊穣の神と、そう称していたことは間違いない。 そして何より特徴的だったのは、その首から上。 艶のある唇、真っ直ぐ細いその鼻梁、扁桃型の両の瞳、奇跡的に均整だった顔面は、古代ギリシャの世には既に完成していていたという黄金比を髣髴とさせる。不変にして普遍の芸術。ユークリッド幾何の奇跡が燦然とそこにはあった。 しかし。艶のある黒髪は一種挑発的な趣を見る者に呈する。両耳朶の上方、側頭部の髪は輪形に縛られその横側円周を正面に向けていた。 腰部まで長く伸ばした髪は、その一部が太く編み込まれており、その上編み込まれた毛束の一部は夕日と同じ、鮮烈な紅に染められている。その紅は、それだけには留まらない。 顔のラインに沿うように伸ばされた前面側部の髪のその毛先も、血を伝って滴らせるように紅い。 奇矯な髪形は、既存に刃向う現代芸術(モダン アート)。完璧に調和立つ姿に異議を呈するアシンメトリーは、自己完結する環形の美感に風穴を開け、そこに禍々しい混沌を注ぎ込む。 それを美しいと評していいのか人は判断に悩む。彼だってそうだった。ここまで存在感を放ちながらも、しかしながら夕日に溶け込むように無言で鎮座する彼女を評する言葉を彼は持たない。 或る有り触れた評価の一文を、別の相克する評価が打ち消して。 固定観念と論理とに囚われた人間が、口から嘆息しか出ないその姿を彼女は何処か超然と、そして艶然と高みから嘲笑っているようだ。 彼女は彼の姿を見咎めると、音も立てずに立ち上がる。 そして、何でもないように口を開いた。 「遅かったじゃあないか。部長」
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