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もう、からかってばかり。満足げな横顔にほんの少し拗ねていたら、一転して不満げな顔に変えて先生が振り向いた。
「それよりさ。何なの、それ」
「これですか? 変装用です。これなら私だってわかりにくいでしょ?」
知り合いに鉢合っても気づかれないようにとバスに乗るなり白いマスクを装着した。
顔の半分が隠れるので中々の変装アイテムだ。
得意げに微笑む私とは対照に先生はつまらなそうだ。
「外しなよ」
「え……でも、私も変装しないと……」
「それじゃ顔が見えない」
裏を返せば顔を見たいとも聞こえる言葉にかあっと顔が熱くなる。
動揺して固まった隙に先生は私の耳からマスクを外した。
「あ、ちょっと」
「冬ならまだしも夏にマスクなんて逆に目立つ」
「……」
たしかにそうかもと納得しかければ、先生の顔に満足そうな笑みが舞い戻る。
その笑顔に胸をいっぱいにさせているうちにバスの車内アナウンスが目的の停留所を読み上げた。
「こんな素敵なお店があるなんて知りませんでした」
高台にあるイタリアンレストラン。
先生の名で通されたその席は海が見渡せるテラス席だった。
突き抜けるような青空、光に照らされ輝く波間、波打ち際で弾ける波の音。この土地の象徴である江ノ島。
毎日目にしている光景も高台から見下ろすとまた違って美しく感じる。
新鮮な景色に目を輝かせていると、ふと視線を感じた。
先生が私をじっと見つめていた。
「……あ、ごめんなさい。子どもみたいにはしゃいで……」
「ううん、喜んでくれたならよかった」
緩やかな風に目を細めた先生に、どきっとする。
店内に知り合いがいないことを確認し、伊達眼鏡を外した先生はいつもの先生でいて少し違う。
普段から力の抜けた気だるい雰囲気だけど、今目の前にいる先生は表情や口調が学校にいるときと比べて柔らかい。
なんだか、特別な気分……。
そんな私の気分など露知らず、先生はパスタをフォークに巻きつける。
赤いソースで彩られたそれはペスカトーレだ。
視線に気づいたのか、先生が顔を上げた。
「どうしたの」
「い、いえ……」
瞬きもせず真っ直ぐに見つめてくる視線に耐え切れず、咄嗟に俯く。
狭い視界で大きな手が静かにフォークを置いた。
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