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「これで……仲直りね」
「だから喧嘩じゃないって言ってるのに」
その声は笑いを引きずっている。
恥ずかしくなりつつも和やかな笑顔にほっと胸を軽くさせていたら、何かに気をとられたように葵くんが表情を変えた。
「氷泉先生、どうかしました?」
「……別に」
「そうかな。何か言いたそうな顔してますけど」
別に、と先生は繰り返した。しかし束の間視線をさまよわせると躊躇いがちに口を開いた。
「ただ……あそこまでする必要はあったのかと思って……」
とつとつとこぼすものが何を指しているのかわかったのだろう、葵くんは薄笑いを浮かべた。
「頬にキスくらい外国では挨拶のうちでしょう。そんなに引っかかります?」
「ここは日本だし……それも世界共通じゃない」
「だけどそうしたおかげで僕との交際を強く印象付けることができたわけだし、二人の疑いも晴れました。大人なんだから嘘でも僕の機転に感謝してほしいんですけど」
先生は声を詰まらせた。
改めるように咳払いを挟むと、
「もちろん……感謝してる。一色のおかげで命拾いした。なんて礼を言ったらいいのか……」
「素直ですね。けどそこまで感謝しなくていいですよ。氷泉先生のためにしたわけじゃないんで」
多分それは葵くんなりの冗談だったと思うが額面通り受け取ったのか先生は押し黙った。
沈黙する彼を横目に見つつ私は肩で一息ついた。
「じゃあ……私につき合ってって言ったのも計画のうちの一つだったんだね」
わずかに見開かれた葵くんの瞳が、ああ、と斜め下へ流れた。
「既成事実を作っておきたかったんだ。百聞は一見に如かずって言うでしょ。二人でいるところをできるだけ人の目に触れさせて交際しているという印象を浸透させたかった。特に小野田さんに」
頻繁に教室へ現れたり、一緒に帰ろうと誘ってきたり――これまでの葵くんの言動や私へ対する気持ちはすべてこの日のためのこしらえ事だったのだ。
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