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ふいに葵くんが掛け時計に目をやる。
「そろそろ帰るね」
「待って」
言いつつ立ち上がりかけた彼を私はすぐさま引き留めた。
最大の疑問が残っていた。
「葵くん……どうしてそこまでしてくれたの?」
誰も知らないところで考え、周囲を欺き、自らを削ってまで動いていた。
そこまでして私たちを守ろうとした理由がわからなかった。
「そんなの、」
そこまで言いかけて彼は思い留まったように口をつぐんだ。
おもむろに睫毛を伏せて微笑む。それから遠くを見るような眼差しを窓へ向けた。
「借りを返したかっただけだよ」
「借りって……私、返してもらうようなこと何もしてないよ」
「花音がお世話になってるお礼」
「だからって……」
彼は口元を緩ませたままそれ以上は言わなかった。
その姿に気まぐれな黒猫を重ねていたら、すくりと席を立った。
慌てて呼び止める。立ち上がった私の方へ彼は顔だけで振り返った。
「ありがとう……本当に本当に、ありがとう」
もう一度深く頭を下げる。
葵くんはこちらへ歩いてくると私のカーディガンの右ポケットから海月のストラップがついた携帯を抜き取ってゆっくりと瞬きをしてから微笑んだ。
「またね」
そしてそれだけ言って部屋を出ていった。
ソファの前にあるテーブルにはガラス戸に並べられている中で一番難易度の高い、先生にすら解けていない知恵の輪が二つに外れて転がっていた。
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