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「何も変わることはない。何一つとして。意味のない質問はやめてください」
気持ちを押し殺して冷静を振る舞うことがどれほど身を削るか知っている。
だからこそ余計に引き際を見定められなかった。
「本当に……それでいいのか」
一色は呆れ果てた顔をして窓を閉めた。
風鳴りや列車の走行音が途絶えて廊下は冷たい静寂に包まれる。彼の背後で蛍光灯がちらちらと点滅していた。
「こんな話されて不愉快だってわかってる。だけど……西島は思い違いを……ここまでしてくれた一色の気持ちを知らないで……このまま……」
これから先、何事もなかったかのように一色に接し続けるのだろう。
彼の胸の痛みなど知ることもなく屈託のない笑顔を向け、ときに無神経なことを口にするかもしれない。そのたび彼は傷つくのだろう。
本当にしつこいな……、独り言のように彼は呟いた。
「くだらない妄執はさっさと捨ててください。借りを返すためと自己満足のためにやったって言ってるでしょう。それとも見返りなしに動くことがそんなに不思議ですか。僕はそこまで底の浅い人間じゃない」
「そういうつもりじゃ……ただ、」
「これ以上あなたの自己満足につき合う気はありません」
俺は黙った。
ここまでだ。結局俺は彼に追い打ちをかけただけだった。少しでも救えたらなんて思い上がりもいいとこだ。彼の意志を踏みにじる行為でしかなかった。
「……ごめん」
詫びる俺から目を逸らして一色は深く息をつくと、
「帰ります」
廊下を歩き出した。
黒いカーディガンの背中が遠ざかっていくのを無言で見送る。速くも遅くもない、廊下の中央を真っ直ぐに歩いていく。
切れかかった蛍光灯を通りすぎ、階段へ折れかかったところで俺は咄嗟に彼の名を呼んだ。
足を止めた一色が面倒くさそうに顔だけで振り返る。ちらちらと点滅を繰り返す蛍光灯に鬱陶しそうに目を細めていた。
「まだ何かあるんですか。今日は普段の十倍は喋ったから疲れてるんですけど」
「お前の好きな食べ物……何」
「……何です、いきなり。ご馳走してくれるんですか」
「いいから。何」
「さあ、何でも食べますけど……そうですね、甘いものかな。パンケーキとかタルトとか」
「パン……ケーキ?」
手のかかる子どもを見るような目をして一色は身体ごとこちらに向いた。
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