序章

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※※※※※※※※  常紋トンネルは、北見から名寄に抜ける鉄道路線敷設(オホーツク環状線構想)に伴い、大正元年から3年間かけて建設された、長さ500m超のトンネルである。鉄路敷設構想の初期時点で、網走方面からオホーツク海側を、湧別方面に抜ける海岸回りルートと、一度内陸に向け、留辺蘂、遠軽を通り湧別に抜ける、山の手回りルートの2通りが考えられた。  当然のことながら、路線がくれば地元の利益になる、両予定沿線の住民、政治家による誘致合戦が激化。そのため鉄道院・後藤総裁(国鉄時代の国鉄総裁にあたる)は比較調査をする必要性にせまられることになる。  結果、1909年(明治42年)に調査のため技師を派遣するも、常紋郡境(常呂郡と紋別郡の間のこと)の過酷な自然環境に彼らは驚き、形勢は海岸回りが優勢になったように見えた。しかし、もはや政治問題としての性格を帯び、山回りルート周辺住民による、政治家への圧力が功を奏したためか、中央政府も山回りルートを採用せざるをえなくなった。そしてそれが、後に大きな悲劇を生むことになろうとは・・・・・・。  こうして始まった山回りルートの敷設工事の中でも、その困難さで群を抜いていたのが、常紋トンネル付近の工事であった。資材を運ぶのにも苦労する密林、ヒグマの出没(現在でもヒグマの生息地域である)。そしてトンネル内は雪が積もらないので、過酷な冬場も作業を続けた(当時冬場に作業することなど、トンネル工事でなければ到底無理であったろう。ましてかなり積雪の多い地域だ)。当然のことながら、まともな人間ならば、逃げ出すような環境下においての工事である。つまり作業には、多数の「騙されて」連れてこられた「タコ部屋労働者」が当てられることになった。  食事は栄養の他ないもので、朝は夜明け、夜は日没までの作業。担いだモッコにより肩口は擦り切れ、その遜口にウジが湧くというような症例も普通に見られたようだ。また作業効率が悪かったり、言う事を聞かないと、ムチやスコップで殴られ蹴られの虐待を受けた。当然、栄養不足から脚気や病気になる者も続出。衰弱して働けないと見なされるや、生き埋めにされる者(当時脚気は伝染病だという説が有力であったことも遠因となっている)、逃げ出して運悪く捕まり、リンチにより死ぬ者、捕まらなくても熊に食われる者などが多く出た。
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