序章

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そのため犠牲者は100人を超えるのはほぼ確実、中には『400人近くでたのではないか』という証言をする当時の工事関係者もいる。また、留辺蘂側(北見方面の出口)よりも生田原側(遠軽方面の出口)で死者が多く出たとの証言もある。そしてそういう凄惨な過程を経て、常紋トンネルは、大正3年にやっと完成し、大正5年には「湧別線」全線開通に至るのだ。  しかし常紋トンネルを世間一般に認知させることになるのは、むしろその「事実」以上にその後の「幽霊話」である。当時の常紋駅(現在は廃止)勤務になると、家族や職員に病人が出るということで、常紋駅(周辺)勤務は、非常に国鉄職員からは嫌がられたものらしい。  もっとも、具体的に「火の玉を見た」「信号が消えた」「うめき声が聞こえる」という話や、「列車がトンネルを通過しようとすると、目の前に血だらけの男が立ちふさがったため、急停車して調べても誰もいない。そして出発しようとすると、また現れるの繰り返しで、いつまで経っても出発できなかった」、「駅の官舎に幽霊が出た」などの話が、常紋トンネルに関わる国鉄職員の間で広まっていたところを見ると、単に「気味が悪い」を通り越して、嫌がられるのも当然だろう。まして常紋トンネルはまさに山の中にあって人里離れた場所だ、気持ちは十分過ぎるほどわかる。  結局、昭和34年に当時の留辺蘂町や地元有志、中湧別保線区(国鉄)の協力により「歓和地蔵尊」が建立され、犠牲者の霊を慰めることになる。これは周辺住民、国鉄職員の不安を和らげることとともに「ダイヤの乱れ」をなくしたいという国鉄の想いがあったようだ(公には、建立に国鉄の関与があったことにはされていないようだが、単に職員の嫌気を和らげるだけでなく、事故や列車の停止などの「現実の」影響もでていたため、国鉄としても慰霊せざるをえなかったと思われる)。そして実際に常紋トンネル周辺では、大正時代から現在までに犠牲者と見られる人骨が多数発見、または掘り起こされている。また、この地蔵尊とは別に、タコ部屋労働犠牲者の慰霊碑が、金華駅からちょっと離れた旧金華小学校跡地に昭和55年に建立された。
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