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桜峠の鬼
ぱしゃぱしゃと水音を鳴らし、女は障子紙を絞った。
春先の川水はまだ冷たく、女の白い手をみるみる赤く染め上げた。ぴりっと切れたあかぎれに水が染み込めば、思わず手を引っ込める。その拍子に障子紙はその透けた身を再び桶の中へと沈めてしまった。
女はひとつ息をついて水の中から障子紙を拾った。
ぐずぐずしている暇はなかった。
けれどぐずぐずしていたかった。
女は自分の傍らですやすやと寝息をたてる我が子を見やった。
その林檎のように赤い頬が、花びらのように薄い唇が、時折はねる掌が、そこに弱々しくも命の火がとぼっていることを主張した。
まだ水の滴る指をその鼻の下へもっていくと、春風のように温かい吐息が女の指先をくすぐった。
途端に、つん、と鼻の奥に針で刺されたような痛みを感じた。濡れた障子紙を持つ指先が震える。
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