14人が本棚に入れています
本棚に追加
「お父さんはまた仕事で帰ってこないみたいよ。相変わらず仕事人間よね」
「そうだね」
母はため息を溢して花に触れた。あたしには分からない花。
母はきっと花の名前もすらすらと答えるに違いない。
「奥様、ショールをどうぞ。風が出てきましたので」
「あら、ありがとう」
確かに風が出てきた。草木は揺れていた。体の弱い母は直ぐに体調を崩す。あたしは彼女を部屋に戻そうと近寄った。
「あ」
風が吹き母のショールが庭から飛んでいった。あたしは咄嗟に追いかけた。風は軽やかに庭からショールを拐い家から出た。
草木を掻き分けながら柵を乗り越え家の前の砂利道に出ると声がした。
「あ…!」
驚いたような声に顔を上げると高校生がいた。背の高い、黒い髪が無造作に伸びて眼鏡をかけた高校生だった。彼はあたしを見て慌てていた。手元にはショールがある。
「春樹?」
「え」
「はい。今いくよ」
彼はあたしと庭の方向を見ていた。砂利道からは大きな草木と柵が邪魔で母の姿は見えなかった。
「…それ、ありがと」
あたしは薄ら笑いながら彼に近寄った。初めて見たけどあたしには分かった。
「あ、いえ」
「兄さん。またね」
あたしはショールを受け取るとまた柵に飛び越えた。彼を見ると目を見開いて瞬きを繰り返していた。
春樹。本来そう呼ばれている息子は彼だ。名前しか知らなかった存在は母を見にきたのだと思う。
この壊れた関係を見に。
庭に戻れば母は首を傾げた。
「はい。持ってきたよ。そろそろ部屋に戻ろう母さん」
「…えぇ、ありがと」
あたしは母の車椅子を押しながら考える。初めて会った兄は父親とは違った目であたしを見ていた。
あたしはあの目を知らない。
初めて向けられた目だ。
最初のコメントを投稿しよう!