“ニューサマーオレンジ”

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鬱陶しい梅雨も明け、夏休みも間近に迫った7月の放課後。 すっかり身体に馴染んだ潮風に吹かれながら、僕は海沿いの坂道を自転車で必死になって登っていた。 夏服から伸びる腕や顔に汗を滲ませ、よろよろとハンドルを左右に細かく切りながら、それでも地面だけは蹴るまいと、サドルから腰を浮かせてペダルを漕ぐ。 「航(こう)、もう少しだよ。ほらほら頑張って」 荷台にはいつもの彼女を乗せて。 「うん。毎度毎度声援をありがとう、しえる」 荒げる息で途絶え途絶えに皮肉めいた返事をすると、むくれた声で彼女は「夕凪だよ、夕凪」と訂正を入れた。やっぱり下の名前で呼ばれるのは、いまだに彼女とってのタブーらしい。 なんと言うか、余裕がなくて彼女のむくれた顔までは確認できないのが残念だ。 夕凪 しえる(ゆうなぎ しえる)。それが彼女の本名だ。 クラスの自己紹介で初めて彼女の名前を耳にしたとき。娘に随分ハイカラな名前をつける親もいたもんだと驚いたけど、暫くして親しくなってから、彼女の名前は彼女の祖父がつけたのだと知って、さらに驚愕したのを覚えている。   恣意の“恣”に恩恵の“恵”、瑠璃色の“瑠”で“恣恵瑠”。 本来、彼女の名前を漢字で表すとこうなるらしい。
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