第1章

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新潟の夜 甲信越方面の公演もあと1日を残すだけになった。 新潟市に着いて、そこで一泊した。 「思いでの街は   霧が深かった」 その夜は、美川憲一の新潟ブルースの歌が聴こえてくるような街に霧がかかった夜だった。 なんとなく部屋の中で落ち着いていられない。 こっそり部屋を抜け出した。 もちろん独りである。 ネオン瞬く歓楽街を過ぎて裏通りに入ると、一軒だけポツンと離れたところに「カッチーニ」と白地に黒文字で書かれたシンプルな看板が目に飛び込んできた。 カッチーニは、16世紀にイタリアに生まれた古い作曲家の名前である。 「アヴェ・マリア」という類いまれなる名曲を遺している。 こんな名前を店の名前につけるとは、いったいどんな人なのだろうかと気になって店の扉を開けた。 店内はカンツォーネが流れるカウンターの席が7つだけの小さい店だった。 透き通るような薄いグリーンのドレスを着たママらしい人がカウンターの中でこちらをやさしくふりむいた。 「いらっしゃい。」 気さくな感じのあいさつだった。 「はじめての方ね。」 「新潟は初めてだ。」 源さんは誰もいないカウンターに腰掛けながら自己紹介をした。 ママは40代の前半くらいか。 「お仕事でいらっしゃったの?」 「うん、まあね。」 初対面のわりには話しやすい相手だった。 人見知りするタイプではないが、一見社交的に見えて実はなかなか心のうちを見せないに源さんとっては、めずらしく心に垣根を感じさせない相手だった。 商売上手ってことか。 「店はいつもこんな感じ?」 「お世辞を言えないほうだから、それでもいいと言ってくれる人しか来ないわ。」 世辞なんかいらない。 接客に大切なのは気持ちが通うかどうかだろう。 金を媒介とした恋愛ゲームほど疲れるものはないが、それを楽しめるやつもいるが、源さんはそういうのは不得手だった。 人生にたいしては実直であったが不器用だった。
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