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「だが……」
俯く僕に、低い声が降り注ぐ。
「――心から愛した人と引き離される痛みも……わかっているつもりだ」
告白に顔を上げると、寂しげに微笑むおじさんがいた。
この人の癖。
誰を想っての言葉かと思うと、胸がズキリと痛んだ。
心から愛した女性が遺してくれた、たった一人の、大切な息子。
僕が悠介を選ぶという事は、おじさんからその存在を奪うという事だ。
その手で抱くはずだった孫との未来まで奪うという事だ。
「ごめん……、ごめんなさい…………」
それでも、答えは一つしかない。
悠介だけは失えない。
たとえ、憎まれたとしても。
「悠介と共に……生きていきたい……」
コートの袖を強く握り締める。
この胸の中にある想いを、決意を、この人の前で曝け出せたらいいのに。
一呼吸置いたおじさんは、僕の後方へ視線を向けた。
「幸も不幸も……本人にしか量る事はできない」
ソファーで眠っているはずの息子に向けて呟いたように見えた。
「これだけは忘れないでくれ。我が子の不幸を願う親はいない。ただ……幸せな人生を歩んでいって欲しいだけなんだ」
幼い頃のように、そっと髪を撫でられた。
「それは君も同じだ。――私の、……可愛い息子のようなものだから」
「おじさん……」
僕を包み込む眼差しは、どこまでも温かい。
腕時計に目を落とし、無駄の無い動きで立ち上がったおじさんは、そのまま迷いなく玄関扉を開いた。
隙間から射し込んだ光に目が眩む。
降り積もる雪を見て漏れ出た声に反応したのか、もう一度こちらを振り向いた。
「あ……、お仕事、いってらっしゃい」
届くかどうかわからない小さな呟きにも、おじさんは優しく微笑んでくれた。
「もう、ともきに戻っていいんだよ」
「え……?」
「いってきます」
玄関に迷い込んだ数片の雪を残し、おじさんは扉の向こうへ消えた。
足音が遠ざかっても、しばらくその場から動けなかった。
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