54

4/7
前へ
/283ページ
次へ
「だが……」  俯く僕に、低い声が降り注ぐ。 「――心から愛した人と引き離される痛みも……わかっているつもりだ」  告白に顔を上げると、寂しげに微笑むおじさんがいた。  この人の癖。  誰を想っての言葉かと思うと、胸がズキリと痛んだ。  心から愛した女性が遺してくれた、たった一人の、大切な息子。  僕が悠介を選ぶという事は、おじさんからその存在を奪うという事だ。  その手で抱くはずだった孫との未来まで奪うという事だ。 「ごめん……、ごめんなさい…………」  それでも、答えは一つしかない。  悠介だけは失えない。  たとえ、憎まれたとしても。 「悠介と共に……生きていきたい……」  コートの袖を強く握り締める。  この胸の中にある想いを、決意を、この人の前で曝け出せたらいいのに。  一呼吸置いたおじさんは、僕の後方へ視線を向けた。 「幸も不幸も……本人にしか量る事はできない」  ソファーで眠っているはずの息子に向けて呟いたように見えた。 「これだけは忘れないでくれ。我が子の不幸を願う親はいない。ただ……幸せな人生を歩んでいって欲しいだけなんだ」  幼い頃のように、そっと髪を撫でられた。 「それは君も同じだ。――私の、……可愛い息子のようなものだから」 「おじさん……」  僕を包み込む眼差しは、どこまでも温かい。  腕時計に目を落とし、無駄の無い動きで立ち上がったおじさんは、そのまま迷いなく玄関扉を開いた。  隙間から射し込んだ光に目が眩む。  降り積もる雪を見て漏れ出た声に反応したのか、もう一度こちらを振り向いた。 「あ……、お仕事、いってらっしゃい」  届くかどうかわからない小さな呟きにも、おじさんは優しく微笑んでくれた。 「もう、ともきに戻っていいんだよ」 「え……?」 「いってきます」  玄関に迷い込んだ数片の雪を残し、おじさんは扉の向こうへ消えた。  足音が遠ざかっても、しばらくその場から動けなかった。
/283ページ

最初のコメントを投稿しよう!

643人が本棚に入れています
本棚に追加