月花は憂う

21/61
前へ
/62ページ
次へ
――もし、急用ができた、とかだったら。 ――電話したら、なんか、迷惑かも。  と。  俺は身じろぎした。  迷いのさなかに携帯が振動したから。  同期して画面が切り替わり、そこには白抜きで「槙田梓」の文字。  慌てて耳に押し当てた。 『……さくら先輩、すみません』  真っ先に聴こえたのは謝罪の声。  ただし、笑み混じりの。 『俺を待ってる先輩が、飼い主の帰りを従順に待ちつづける子犬みたいで可愛かったから』  鈴の音は当然耳もとから。 「気づくまで観察してようかな、と思って」  そして、となりからも。  怒りのあまり手が震えた。端末を頬にすりあわせながら、右どなりに顔を向ける。  そこには案の定、むき出しの黒い機器を耳にあてがい、肩を揺らす長身の男。  その姿を見て――俺は、目も口もかすかに開く。 「でも先輩、近づいても上の空みたいで気づいてくれなかったし……それに昨日あげたチョーカー、つけてきてないみたいなんで、おあいこってことで」 「……な、何が、おあいこだ、ボケ……」  罵りつつ、情けないことに視線は釘付け。  愉しげに細められた目――レンズを介さない、肉食獣のそれに似た眼に。  もっとも、普段とちがうのはそこだけじゃなかった。  女のそれのように黒く淑やかな髪を、整髪料で緩く遊ばせている。  アクセサリーをつけているところなんて一度も見た覚えがなかったのに、羽根を象ったチャームを、ごく自然に胸のあたりに揺らしたりもしている。  薄手のグレーのジャケットに、無地の白いVネックシャツ、脚の長さを強調する黒のパンツ――  日頃から野暮ったい印象は受けたことがないけど、今日は一段とシャープに見えた。 「お、お前、……」 「こんなところで見惚れないでください」 「、こんなところで何言ってんだアホ、……つ、つーか、眼鏡は? コンタクト、入れてんのか?」  槙田は、ああ、と、携帯を懐のポケットに仕舞いつつ、 「あれ、伊達なんですよ」 「は」 「度、入ってないんです。視力は両目とも2.0」 「は……」 「ずっと付けてたらそれに慣れちゃって、家でも付けたままにしてるんですけど。……ほら、時々外すでしょ?」 ――ベッドで。  薄い唇を動かしただけ、音はともなわない。  やけに艶めいたその仕草が――俺の体をますます熱くした。
/62ページ

最初のコメントを投稿しよう!

99人が本棚に入れています
本棚に追加