月花は憂う

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 どうしてだろう。  遠い夜のことを思い出した。  8年くらい前。父さんがいなくなる少し前のこと。  勉強机に向かい、数学の問題集とにらめっこしていた俺は、背後でとつぜん扉が開いたことに驚いた。  顔を覗かせたのは、眠ったのを確かに見届けたはずの妹で。  そのことにまた驚いた俺は、彼女がウサギみたいに赤い目をしているのにもっと驚いた。  転げ落ちそうになりながら立ち上がると、妹はおずおずと部屋に入ってきた。  どした、と訊くと、小さな両手を前につきだして――身震いするように鼻水を啜り上げてから、抱っこ、と一言だけ。  求められるままに抱っこして、背をさすって。ただただしゃくりあげる彼女が落ち着くまで、大丈夫、と繰り返した。  母さん。妹。俺。  家族の4分の3がそろっているのに、家のなかは震えるくらいに静かだった。  今よりもっと高かった俺の声は、放ったそばから静寂に吸い込まれて。  全然大丈夫じゃない、と思っていた。  どうしよう。  どうするのが正解なんだろう。と。  開いたドアの隙間から、ほんのり明るい廊下の壁を見つめても、そこに答えは書かれていなかった。  数学の問題集みたいに、目に見える解答なんて存在しない。どこにも。 『おにいちゃんは、泣かないでね』  俺の寝間着に顔を押し付けているせいで、小鳥に似た声はくぐもっていた。  どうして泣いているのかはわかっても、やっぱり、どうすることもできなくて。  泣かないよ、と笑っただけ。  いつだって、俺は何もできない。 「さくら先輩」  吐息に首筋をくすぐられて、痙攣するように動きをとめた。  そこでようやく、無意識に奴の背をさすっていたことに気づく。  慌てて引き剥がして――わなわなと落ち着かなかったから、とりあえずぎゅ、と握り込んだ。  槙田は息だけ零して笑い、裏腹に震えのおさまった手で、俺の髪に触れた。  つむじから、うなじまで。じれったいほどにゆっくりと降りて――仕舞いに、チョーカーに触れられた。  身じろぎして、きっと桜が舞う。  闇の中のかすかな光を集めて、きっと淡くきらめいている。 「あんたが好きだ」  込み上げてきた熱いなにかを、 ――泣かない、 「……さくらって、呼ぶな」  抑え込んで、低めた声で咎める。 「咲良さん」  呼吸がとまる。
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