月花は憂う

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   大学から徒歩10分の位置に聳える高層マンション。その9階。  空に近く、防音性に優れたこの部屋は、外界の喧騒から見事に遮断されている。  過剰なまでに薄く巨大なテレビは、いまは部屋の風景を映す黒い鏡と成り果てていた。  音と言えば、先程カーテンを閉める音がしたきりだ。自分以外に人間が居るとは、慣れていなければとても思えない。  耳が痛くなるような静寂を背にーー  俺はいま、大根と豆腐を入れた出し汁に、味噌を溶いている。 「さくら先輩」  鈴の音に似た声に、顔をしかめた。 ――てめえは暗殺者かよ。  いつものことながら、内心呟かずにはいられない。  渋面を作って振り向けば、傍らにはいつの間にか、このだだっ広い部屋の主、槙田梓が立っていた。  黒髪、色白、清楚かつ穏やかな印象の、品行方正そうな好青年――に見えて、中身はド変態の人でなしという恐るべき野郎だ。  奴は眼鏡の奥の猫に似た双眸を細め、甘いーーまさしく「マスク」に人好きする笑みを象り、 「こら、眉間に皺寄せない。可愛い顔は可愛いままですけど、痕残りますよ」 「……可愛くねえし痕残っても別にいいから、何か用あんならさっさと言えよ」 「今日の夜、これ使っても良いですか」  突き出されたのは歯ブラシ。  柄の部分が太くなっているご立派な形状からして、たぶん電動のやつだろう。 「はあ? 勝手に使えよ、んなもん」  俺は苛立ちを隠しもせずに吐き捨てた。  大学から帰ると、狙い澄ましたように電話が掛かってきた。  相手は勿論この男で、忌々しいことに「さくら先輩の手料理が食べたいです」とかほざいてきた。  渋々ながら何が食いたいのか訊いたら、「何か家庭的なもの」と更にほざかれた。  仕方なくメニューを考えつつスーパーへ出掛け買い物をして、ビニール袋をがさがさ言わせながら部屋を訪れーーるなり、いきなり抱き付かれた。  そして服の上からではあるものの、身体をまさぐられた。  上半身だけならまだしも、下まで弄くろうとその手が伸びてーー咄嗟に手を掴んだけど、怪物的な馬鹿力の前では無力だった。  俺は手のひらから、ひやと冷たい奴の温度を、内に伝えただけ。 「く、……槙田、ぁ、んっ……てめえ、俺に飯作って欲し、ん、だよな……っ!」 「ええ。でも、先輩も食べたいです」  思わず頭突きした。 「身長縮みますよ」  俺はなんて無力なのか。  
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