月花は憂う

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――飲食物の持ち込みはご遠慮ください、  目で追った文章を、頭でも繰り返して思考を散らせる。 ――万一確認致しましたら、 「この曲、知ってますか」 ――……曲名を言えば済む話だろうが。  声からしてまだニヤついている奴の顔を見ないよう、俯きがちに振り返った。  差し出された画面に表示されている、曲名に歌手名、歌い出し――どれを見ても少しもピンと来るところがない。  首をかしげると、 「あ、」  鈴の音が、聞き覚えのある旋律を奏でる。 「……わかります?」  聞き惚れてしまって反応が遅れた。  慌てて頷くと、じゃあこれにしますね、と――槙田は、たぶん微笑んだ。  そこでノックの音がした。  アップテンポな伴奏を背に入ってきたのは、岩武ほどに筋肉質な大男。  盆に沢山乗せた中から、二つグラスをおいて下がる。ごゆっくりどうぞ、の声も、身体に負けず劣らず大きかった。  扉が閉まりきったあとで、槙田が俺の前に置いたのは濁った方。  ミルクティーは好きだけど、そう教えた記憶はまるでない。  内心首を捻りつつ、ストローに口をつけた。  まったりとした味わいをよそに、暴力的な冷たさがまっすぐ胃の底に落ちていく。美味しいけど、少しずつ飲まないと。  と。  2口目を飲み下したところで、室内が静まり返った。  顔をあげると画面が切り替わっている。  視界の端で、白い指がマイクに絡んだ。  何となくグラスを机上に戻した刹那、前奏が流れはじめる。  あ、あ、と短い音を発しながら、槙田は慣れた様子で音量を整えていき。 ――なんでだろ、  歌詞が表示されて。 ――すげー緊張する。  ブレスの音がして。 ――あ、  風に撫でられた真白い花びらが、遅れてぶわりと舞い上がるような。  その――やわらかで、ひどく官能的なものに、全身を愛撫されているような。  そんな感覚。  ぞくぞくするあまり、ぅ、と声を漏らしてしまって。咄嗟に手の甲で唇をおさえた。  幸い、部屋中が甘美な音色で満たされているいま、槙田に俺の声は届かなかったらしい。  歌声が途切れることはなく――どうしようもなくとろんとしながら、俺はようやく、ここを選んだことを後悔した。  サビに入る。 ――駄目だ、  高音が綺麗。 ――よすぎて、  上手い、と言う表現さえ、失礼に思えるくらい。 ――ほんとに、 ――……惚れてしまう、かも。
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