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曲が終わる度に、白くて瑕疵のない肌に、唇で触れた。
もう一度右頬に、と近付いたら、同じところにされたキスは無効です、とか面倒臭い条件を補足してきた。
だから、色々な場所に。
手を掬いとって、その甲に。
届かないから立ち上がって、額に。
目を閉じてもらって、目蓋に。
――蘇りかけた階段での一幕を、頭の隅っこへ追いやって、首筋に。
髪に口付けたとき、シャンプーの芳香がした。
付き合いはじめてから槙田はシャンプーを変えた。
今のは、前のものよりもあっさりとした、爽やかな香りがする。俺はこっちの方が好きで、それが何だか、ちょっと悔しい。
槙田はどんな曲を歌っても上手かった。つくづく器用なことに、歌声が曲によってその色を変える感じがした。
どれだけ聴いてもまだ足りなくて、時間一杯聴いていたかったけど――それは我が儘が過ぎると思ったから、俺も歌った。2曲だけ。
本当は、1曲だけのつもりだったのだけど。
緊張の余韻に震える手でマイクを置いたら、歌手だと言われても頷けるほどの歌唱力をもつド変態は白々しい拍手をして、
「先輩、声可愛いな……と言うかぜんぶ可愛い」
可愛くねえ、と言い返すより先に、唇を重ね合わせてきた。
「アンコールです」
そう微笑まれては致し方なく。それで2曲。
岩武がカラオケに来る度に歌うから覚えてしまった曲を歌って。
後奏が終わる前に――避けていた唇に、お返し。
槙田は苦笑しながらリモコンを取った。
3度目の口付けからはもう、その頬が朱に染まることはなかった。
* * *
部屋を出てから思い返す。薄闇の中のやりとりは、普段の俺からすればとんでもないものだったと。
けど、楽しかったから良いかと――自己嫌悪に溺れるどころか、その黒いさざ波に足元さえ洗われないなんて。
――また、来れたらいいな。
そう、喉の奥で呟いてしまうなんて。
俺はたぶん、まだまだ夢心地なんだと思う。
奢る、と短く告げて、槙田が拒むのを無視して会計を済ませた。
涼風のそよ吹く外へ出る。
自動車の走行音に、信号が放つ電子音。辺りにあるのはざわざわと、とりとめのない音の群れ。
「このあと、どうしますか」
並んで歩きだして間もなく、槙田が腕時計を見ながら尋ねてきた。
「まだ夕食には早い時間ですけど……ホテル行ってベッドインしますか?」
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