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「愛」
少し怒りを込めた口調で呼びかけられる。なにか怒られるようなことをしかたと思い返すが、理由は思いつかない。
「はい?」
朝食を作る手を止め、振り返る。キッチンと廊下の境に、呼びかけた百鬼 桜は立っていた。パジャマではない。出かける予定があるのか、今日は朝からちゃんとした私服だ。髪も結わえてある。
「あいつ、逃げたわよ」
吐き捨てるように、桜は言った。
「逃げた? 誰がですか?」
「大輔よ、未使魔 大輔。あいつ、逃げたわよ」
腕を組み、目線を外す。その先にあったのは、空気の入れ替えのために開けているガラス戸だった。今日も朝からいい天気で、青空が見えていた。さっきも学生服を着たグループが何組も通り抜けていった。きっと部活があるのだろう。
「昨日、療がしゃべったのよ、自分がここに来た理由。それ聞いて大輔ちょっと……だいぶ? 凹んでてさ、大丈夫だろうって思ってたら、こんなことに……」
舌打ちが聞こえる。
「部屋に書き置きがあったんだって。……って、愛も聞いてるでしょう? なんでそんな冷静なの?」
「桜さん。書き置き、ちゃんと読みましたか?」
目線を外されてるので、こちらも作業に戻る。フライパンの火を弱め、包丁を握った。
「書いてあったじゃないですか。”戻るつもりではいます”と。逃げたわけじゃないです。ちょっと遠出をしているーー」
「それを信じるの?」
馬鹿じゃない? 桜はもう完璧に怒っていた。
「今まで何人の人がそうやって出て行って戻ってこなかったと思ってるの?愛だってそれを見ているはずなのに、なんで今回もそうじゃないって信じられるの?」
「私は、まだ信じていますよ。皆さんは出て行ったわけじゃないです。また戻ってきますよ」
大輔さんが特別なわけじゃありません。笑顔で言い切る彼女を見て、桜は貧乏ゆすりを始めた。
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