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板張りのベッドに座るティルアの手がひりひりと悲鳴を上げる。
ベッドサイドに立つアスティスは甘んじて受け止め、口の端をグイと拭って再度目線をティルアへと合わせた。
「どう言われても仕方ない……でも、俺はラズベリアに来れて……君に逢えて、
――幸せだった。
しかしその一方で、俺の欲のせいで君を不幸にしてしまった。
もう気付いていると思うが、ティルア……
三年前の舞踏会で君を襲ったのは、他でもない……この俺だ」
「…………薄々、薄々感付いていた。
アスティスは、初めて公の場に出た僕に色々なことを教えてくれた。
ワルツのステップすら満足に踏めなかった。
来賓の顔すら知らなかった。
そんな僕にアスティスはひとつひとつ丁寧に教えてくれた。
でも、アスティスはただひとつ教えてくれないものがあった……それが結果的に僕に教えてくれたんだ」
ティルアはアスティスが初めてラズベリアの謁見の間に通された時のことを思い浮かべていた。
「アスティスは初めて僕に会った時、舞踏会で僕とそっくりな女性に会ったと言った。
でも、僕はあの舞踏会でアスティスの名前を聞いた覚えがなかった。
名前を聞いていない来賓はただ一人だけ。
……僕を襲った紳士だ」
「……そうか、俺は初めから君に答えを言っていたんだな。
最初から最後まで……君には辛い思いをさせた。
だから……最後に君にこの言葉を贈ろう」
アスティスは淋しそうに笑った。
この表情のアスティスを見るのは二回目だったが、これが最後なのだろうとティルアはぼんやりと感じた。
「ティルア、俺のことは忘れてくれ。
……もう二度と俺から君の前に姿をみせることはないから」
アスティスが簡易椅子から立ち上がった。
一度も振り返ることなく、躊躇い一つすることなく、真っ直ぐにドアノブへと手をかける。
かちゃと小さな音がしてドアが押し開いた。
ゆっくりと見えなくなる背中、遠くにいなくなる存在。
遠ざかっていく足音。
ティルアは何も考えることができなかった。
ぼんやりと、ただぼんやりと、自分の中の憎しみの灯がゆらりゆらりと風に揺らめき、煙を燻らせて消えていくことを意識の奥深くに感じた。
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