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女将にたっぷりと油を搾られ、泣かれ、か弱い力で散々体を叩かれた。
畳をバシバシ叩き、ハンカチを噛みしめながら女将が説教するのを、若旦那は身を固くして聞いている。
それでも何も答えない息子に、女将はヨヨヨと悲嘆にくれたあと、やっとのことで解放した。
自分自身も疲れてしまったようだ。
グッタリとした若旦那が、寝る前に風呂に浸かろうとロビーを通ると、そこに服部が座っていたのでギョッとして足を止めた。
もう深夜二時近い。
ボンヤリとした月明かりが差すだけの薄暗いロビーに人がいるとは思ってもみなかった。
それが先ほどの警察官となると、驚きも倍増だった。
「驚かせてすみません」
服部が暗がりで言った。
「い、いえ。こちらこそ先程はとんだ失礼をして申し訳ございませんでした」
「その話はもう済んだことです」
若旦那は所在なさげに佇んでいる。
「少しだけ付き合ってもらえませんか」
服部が隣の椅子を手でさし示すと、若旦那は戸惑ったふうに少し体を揺らしたあと、チョコンと座った。
服部は煙草を差し出したが、緊張した若旦那は首を振って辞退した。
「俺の単なる好奇心でこんなことを言うのを、まずは謝っておきます」
と前置きして
「あなたがあの部屋に入ってきたのは、亡くなった恋人の姿を見るためですか」
ズバリ切り込んだ。
若旦那は、ヒッと大きく目をむき出しにすると、体を少し後ろに反らせた。
「個人的なことを探ってしまって申し訳ないんですが、それでもそうとしか思えない。康子さんというあなたの恋人が、あの部屋に現れる……それが今夜なんですね」
相手を極力興奮させないよう、ゆっくりとした口調で言う。
若旦那は傍から見てもわかるくらい動揺し、あたふたと視線を泳がせている。
「仲居さんによれば、いつ康子さんが現れるのかは分からないとのことだったので一度はその考えを捨てました。
でも、ある法則に思い当たりました。あなたもそれに気がついたんでしょう」
「な、なんですか」
「月下美人が咲く夜です」
若旦那の動きが止まった。
目線も、軽く開いた口も、ピクリともしない。
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