2人が本棚に入れています
本棚に追加
田辺に別れを告げることができなかった山本は、後悔の念にさいなまれながら日々を過ごしていた。
食事は少しの芋と粟を水で溶かしたものが一日二回だけ。昼間は畑仕事を手伝わされ、夜は廊下で布団も無しで寝かされる。
そんな生活に嫌気がさした山本は、ついに疎開先の寺を逃げ出す決意をした。
特に当てがあったわけではない。
それでも彼は、現状から逃げ出すことを選んだ。
思い出すのは、集団疎開が始まる前。まだ学校にも人がたくさんいて、家族全員が明るく過ごせていた時のことだ。決して生活が楽だったわけではないだろうが、心が満たされていた。
「帰りてえよ」
そんな呟きも、子供には厳しい山並みに飲まれていった。
山本は泣かない。男はつらい時でも、それを表に出さないのだ。父や先生の言葉の数々を思い起こして、軟弱な気持ちを打ち払う。
そうして道なき道を進むうち、崖に張り付くようにしてたてられた、一軒の民家にたどり着いた。
「こんなところに、家?それにしてもぼろっちいな……」
「ずいぶんとご挨拶ですね」
「どわっ」
家に気を取られていたせいで、後ろからやってきた男性に気がつかなかったらしい。慌てて釈明を始める山本に、男性は優しく語りかける。
「どうしてこんなところに?……いえ、疎開先から逃げ出したのでしょう」
その言葉に思わず実を固くする。ここで送り返されてしまえば、住職に何をされるかわからない。
静かに逃げ出す心構えを作る。
「まあいいでしょう。戻りたくないのなら、私の家にいらっしゃい。こんなぼろ家でよろしければですが」
「……いいのか?」
「和尚さんには私から伝えておくので、心配は無用です。うん、正直に言いましょう。私もそろそろ話し相手が欲しくなりました」
独特の雰囲気をもつこの男は、一体いつからここに住んでいるのか。家はだいぶ傷んでいて、五年やそこらでなるものではない。温和な印象を与えてはいるが、年齢も前にいた小学校の校長と同じくらいに見える。
「おっさんは一体、何者なんだ?」
「私、わたしはですか。そうですねえ、一応は植木職人をやっているんですが、何分このご時世なもので。果樹を植える手伝いをしています」
「果樹?」
この出会いこそ、山本にとってつらい経験だった疎開が、意義のあるものへと変わった瞬間だった。
最初のコメントを投稿しよう!