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しばらくして、薫はくらくらしながら、腕を伸ばし彼の大きな手の中に、手を滑り込ませる。
彼は、薫を引き寄せると、ゆっくり立ち上がらせた。
それからもの憂げに腕を撫でて、桜色のコートの袖についている水滴を払う。
コートの上から彼の手の感触が伝わり、薫の体は急に火照り出した。
汗が胸の谷間を流れ落ちる。彼の手が自分の手を包んでいるのを、意識しながら「ありがとう」と消え入るような声を出す。
薫が体を引こうとしたその時、長野が手を伸ばして彼女の顎に添え仰向かせた。
しかも彼の視線が唇をなぞるのがわかると、薫は落ち着きなく舌で唇を湿らせる。さらに背中に当てられた手が腰に移ると、震えが腕を伝い脚へと降りていった。
「僕が怖い?」からかうように、黒っぽい瞳をきらめかせる。
薫は唇を噛み、その整った顔を見上げる。彼が触れる度に、体を走る抑えようがないざわめきが、怖かったのだ。
「歩ける?」「ええ…」
長野は、薫の腕をそっと自分の腕に絡ませると、足下を気にしながらゆっくりと店に向かった。
「素敵なお店ですね…」
「気に入った?」「ええ‥とっても」
長野は、座敷のある個室を予約していた。
そこまでの通路が狭かったので、肩を抱き寄せる。その弾みで、長野の腿が薫の腿をかすめた時、きゅっと身を固くして、さっと体を離した。
彼女は過敏になっている…ひどく。
【まだ、僕が怖いのか?】
…もし怖いのなら、この誘いに乗らないな…
【こんな場面に慣れていない?】
…取引先との食事は、彼女の職種なら頻繁にあるはず。
【男性経験がない?】
…確か今年26歳になると聞いた…今どきありえない。
薫が見せたこのシグナルを、彼はどうにかして、読み解こうとしていた…
ためらいがちに微笑むその顔は、今まで逢ったどの女性たちよりも、温かく、疑うことを知らないように映る。
改めて彼は、薫を見つめて気付いた。
男の目を引く華やかさはないが、地味な服と目立たない髪型で、美しさを隠していると。【なぜだ?】
「どうしたんですか?」薫が、怯えるように長野を見上げる。
「えっ!」「わたしのこと、じっと見ていらっしゃるから…」
「君は美しい」
「春の新芽のようにみずみずしい」
「からかっているんですか?」
「自分が、きれいじゃないってことは、自覚しているんです!」
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