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【この場から消えたい…】そんな想いが膨らんで来た薫は、頬を染めさんご色の唇を噛んで視線をそらすと、入口に引き返えそうとする。
しかし彼に、薫は右手を優しく掴まれ、引き寄せられた。
そして「君は美しいよ、薫さん…」、長野はうっとりさせるような声で、耳もとで静かに繰り返した。
名前を呼ばれて薫は、刺すような視線を彼に向けた。
「お世辞を言っても無駄ですよ、長野さん」
長野は穏やかに微笑む。「どうしてお世辞だと思うの?」
「あなたにとって、この程度のリップサービスは、お手のものだわ…」
「美しい女性たちに仕事柄、接しているあなたが、わたしに美しいという理由は、一つだけ…」
「自分のペースに早く持ち込み、有利に進めたいからでしょ…」
上司の杉原も、薫に一目置いていると言う、香川の話は間違っていなかった…
彼女は美しいと同時に勘も鋭い…長野は薫を知れば知るほど、興味がわいた。
「嘘はついていないよ…」
「わたしはそこまで世間知らずじゃないわ…」薫は掴まれた右手をそっと解くと、通路の飾り窓から、月明かりに照らされた箱庭を見つめた。
「お食事、お持ちしてもよろしいですか?長野さん。」店の女将の声で薫と長野は、ハッと我に返った。
「いいですよ…今から部屋に入るので、よろしくお願いします。」
薫は、予約された個室の前で、長野と話をしていたと、ようやく気がついた。【彼は、わたしがひどく緊張していたとわかっていたのに、敢えて急かさないでいてくれたのね…】
「お腹空いたでしょ?」
「掘り炬燵のある和室だから、ゆったりできると思うよ…」
「ごめんなさい…店の営業時間のことも考えないで、わがまま言ってしまって…」
「気にしていないよ…でも後10分も続いたら、女将に小言を言われたかな!」長野は、苦笑いを浮かべて薫を部屋に案内する。
部屋の引き戸を開けると、天井から和紙で作られた灯りが、深みのあるダーク色のパイン素材の座卓に、柔らかい影を落としていた。
大都会の喧騒から離れ、静寂に包まれた懐かしさも感じるこの店は、京都の町家をイメージしたものだと、その時薫は、気づく。
【わたしが、リラックスできるように、してくれていたんだ…】
薫は、長野の心遣いを勘違いしていた自分の軽率さに、穴があったら入りたい気持ちだった。
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