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「そうなの……、あんまり人間のところに行かないようにしてね、危ないから」
「分っているよ、気をつけるさ」
父熊はとても満足して、母熊と小熊を優しく抱いて眠りました。その夜、瞬く星は血のような赤さで不気味に輝きました。
3日後、食べ物が底をついてくると父熊はまた川に出かけて行きました。しかしやはり川には魚はいません。と、帰ろうとした時です。ふと見ると、とても美しい1頭の鹿が、優雅に水を飲んでいました。季節は秋深く、赤や黄色に色づいた木々の葉が鮮やかで、周囲は鏡のような静寂に包まれていました。艶のある茶褐色の毛並みは夕陽で黄金色に輝き、スラリと伸びた脚と突き出された小さなお尻、細くあえかな首を前に伸ばして水を飲むさまは、得も言われぬ光景でした。気づかれぬようにそっと父熊は近づきました。鹿は熊が来たことに気づきましたが、別に何の違和感も感じないまま、自分と同じく水を飲みに来たのだろうと思っていました。
それまでの黄昏が一転、どす黒い雲が太陽を隠しました。父熊はそのか細い鹿の首めがけて、その太い右腕を力いっぱいに振るいました。一瞬「まさか」というような表情に父熊はたじろぎましたが、もうすでに鹿は死に絶えていました。黒真珠のような瞳は見たこともないような悲しさで、辺りの紅葉をはかなげに映しました。
恐ろしさと悲しさで父熊は胸が破れそうでしたが、まだ温もりのある鹿を抱きながら急いで森の中へと消えて行きました。猟師と取引をした例の場所に向かったのです。息せき切らして父熊がそこへ着きますと、猟師はずっと前からそこにいたように、落ち着いた様子で切り株に腰をかけてお茶を飲んでいました。
「おおっ、きっと来ると思っていたぞ。俺様はおとといも昨日もここに来ていたんだからな」
父熊はハアハアしながら、大事に抱きかかえてきた鹿を猟師の前に置きました。
「これは立派な鹿だなぁ、ありがとうよ。約束だからな、ほら」
猟師は満面の笑みを浮かべて、大きな魚を10尾もそこに置きました。
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