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博之は生活のレベルを落とさないように苦心惨憺、しかしながらもはや52歳ともなる男性が再就職などそう簡単に果たせるものではなかった。営業ひと筋の彼にはこれといった技術があるわけでもなく、ただ大会社にいたというプライドだけが残っていた。夫婦の貯金も底をつき、とうとう博之は株式投資の失敗からカード・ローンやサラ金にまで手を出し始めてしまった。こうなってしまうともはや家族にとって博之自身が不要のものとなってしまう、そのことに気づいた時にはもう遅く、淳子は離婚を考え始めていた。長年飼った小さな犬のことを見栄のために疎ましく思った家族である、父親のリストラ、そして借金は耐えられないほどの屈辱となり、父親を嫌悪さえするようになった。マザコン傾向の和彦は淳子に容易く篭絡され、「お父さんのようになりたくなかったらもっと勉強しなさい」とまで付け加えられた。父親に寄せていた気持ちがどこへ行ってしまったのか、和彦は自分でも不思議に思った。確かに和彦は博之が好きだった、しかし今は簡単に不要に思えた。
「結局、結婚してから一度だって海外旅行に行ったことないのよ、もう私40よ」
「お母さんがいたんだからしょうがないじゃないか」
「そうねぇ、でも亡くなったと思ったら、今度はあなたがこんなふうじゃ、本当、嫌になるわ」
「そんなに急ぐなよ」
「普通の暮らしがしたかったわ」
「普通の暮らし……、普通って一体なんだ?」
「テレビでやってるじゃない、いつも」
「朝から晩までサラ金のコマーシャル流しているテレビなんかを誰が信用するか」
これが夫婦が顔を見て交わした最後の言葉だった。博之は家を出た、博之には意思によって動く力が残されていた。別居するという軽い気持ちだったが、それは1年後の離婚となった。淳子は近所の洋装店に務め出した。博之からのわずかな養育費と生活費の仕送りでは、とても普通の暮らしどころか、淳子が許容する最低限の暮らしさえ維持することは難しかったからである。外国製のドッグ・フードと和彦の塾くらいには平然とした顔でいたかった。もともと求心力のなかった家庭にあって、今やファウストが醜悪にもどっしりと中心に落ち着き、無尽蔵の欲望でも食べているのか、彼だけがますます肥り大きくなっていった。
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