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「おれに、鳥なき島の蝙蝠になれと言うか!」
怒号が響いた。
「そんなことだから、本州の者どもになめられるのだ。お前たちはそれが悔しくはないのか」
長宗我部元親もまた、織田信長と誼を通じ、長子には信の一字と左文字(さもんじ)の太刀が送られたと言う。
信の字を与えられたのは元親の自慢の息子、長宗我部信親(ちょうそがべのぶちか)のことである。いまその子は成人し、左文字の太刀を腰に、父と共にここに攻め込んで来ている。
信長の節操のなさはともかくとして、その際に信長は「鳥なき島の蝙蝠」などとからかったのだが、そのことを知った存保にも、こたえた。
名誉も誇りもずたずたに引き裂かれる思いだった。
「この、四国の山猿どもめが」
という、信長の嘲りが聞こえてきそうだった。本州から見れば四国は田舎であった。
土佐などは鬼国と言われ、人の住むところではないとさえ言われて、政争で敗れた者や罪を負った者たちの流罪の地とされてきた歴史がある。
四国における戦国は、信長から見れば、山猿の小競り合い程度にしか思えなかったのだろう。
本州よりの援軍を期待して篭城、それは、信長の言うことを自ら実証するようなものであった。存保には、それが我慢ならなかった。
もしそんなことをすれば、淡路いる仙石秀久が四国に上陸する際に、
「さて、四国の山猿どもの顔でも拝みにゆくか」
などと、鼻糞でもほじりながら言いそうだった。
「お前たちはそれでもよいというのか」
名誉の問題だった。
家来たちは押し黙った。
三好家は一時は天下をほぼ手中に治めた。それからひたすらの転落である。もはや気力も萎えて、戦うことを放棄しがちな者が多かった。
広間の沈黙に、存保は歯軋りする。
(なんと不甲斐無い者どもよ)
その時、沈黙に耐えられず、若い家来が顔を上げた。
(おっ)
存保はそのほうを見た。
(ほほう、孝康め)
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