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それは、讃岐方の家来、安宅(あたぎ)孝康(たかやす)であった。
目を鋭く光らせて、うつむき加減な家来たちを睨みまわしている。
年は存保より二つ下。
父は三好長慶と義賢の弟、安宅(あたぎ)冬康(ふゆやす)。存保とはいとこの関係にあたり、それとともに、家来でもあった。
三好家は他家に自分の子供を送り込んでいるが。存保が十河家に行った様に、冬康も淡路の安宅家に行った。
冬康は兄である長慶、義賢を助け三好家を支えていたが、無残なことに謀殺されてしまう。それが、三好家衰退の引き金になったという。
その後安宅家は信(のぶ)康(やす)が跡を継いだものの、織田信長に降った。孝康は冬康が侍女に産ませた私生児であったためか、家の事にはあまり関わらずに自由奔放に生きてきた。
その自由奔放さは、冬康の死後顕著となり。浪人して四国に流れた。その時、讃岐の十河の郷が気に入り、そこに住み着いてしまった。
それを知った存保、最初はさほど気にも留めなかった。家を捨て、この郷で隠棲しようとするのはいとこ自身が決めたことだ。
いちいち人の人生に割りこむ野暮はしない。が、争乱が讃岐、十河の郷に及んでくるにつれて、
「家来にしてほしい」
と突然自ら仕官を願い出た。
「郷のために?」
「家は捨てた、が」
「が、どうした」
「左様。所詮それがしは私生児、いたところでやくたいもない。だから捨てた」
「それと郷と何の関係がある」
「家を捨て、郷を拾った。いや、家に捨てられたそれがしを、郷が拾ってくれた。その恩義に報いたい」
「……」
余所者ながら、孝康は郷の者たちと仲良く暮らしているのは知っていた。慎ましい生活ながら、本人もそれで満足そうだった。
「郷の人たちは、皆良い人たちだ」
それが全てであった。
武士が土地を守るといっても、それは財産を守ることで、人まで助けるという意識はとぼしい。ゆえに、孝康は武士としては珍しい意識を持っていた。
存保は、そんな彼の気持ちを受け入れることにした。存保も、同じように余所から来た者だから。
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