序章

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 月夜を彩るにぎやかな音色、芸者の軽妙な踊り、全てが見事に組み合わさり、心をとらえて離さない。まるで、見るものの心まで、音と踊りとがっちりと軸がかみ合い、ひとつになったようだった。  いや、存保とお燕だけでなく、まるで今自分たちのいる三角州全体がそうなったように、にぎやかだったが、 「阿呆らしい」  隅で、そんな小声がちらっと聞こえた。武士たるものが、庶民の踊りを楽しむなんて。という高飛車さがありありと感じられて。  お燕はそれに頬を膨らまして、声のほうに振り向こうかというとき、 「やるか」  と存保が立ち上がった。  阿波の名族三好家に生まれ、讃岐の名族十河家を継いだ二十四歳の若き城主は、眉の太い精悍な顔をにこにこさせて、風流踊りの中に飛び込んでゆく。  さあ大変、殿様が飛び込んだということで、火に油が注がれたように、三味線や鐘、笛の音が一段と高くなり。見物のものたちも踊りの中に入ってゆく。  踊りの中に入るということは、館の中に入るということだ。 「これは」  と家来たちは止めようとした。当たり前だ。今のご時勢がご時勢だけに、どこに何が忍び込んでいるかわかったものではない。  しかし、存保は気にも留めない。それどころか、 「よい。無礼講よ」  と家来たちを止めるばかりか、 「お前たちも、一緒に来い」  とまで言うではないか。これには家来一同、ぽかんと、あんぐりと口を開けて一瞬呆けてしまった。 「踊るは阿呆。ならば、観るも阿呆。同じ阿呆なら、踊らねば損じゃ」  かっはっは、と大笑し、踊る存保。すると、 「わたくしも」  と、なんと奥方であるお燕が踊りの中に飛び込んでゆくではないか。しかも、履き物を履くのも面倒くさがり、裸足で。  付き添いの侍女も止める間もなかったほど、すばやい動きだった。  白くて細い足が土で汚れるのも構わず、お燕は存保とともに踊ろうとした、が、しかし。 「いたい」  とつぶやき、お燕は座り込んだ。石を踏んでしまった。
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