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長宗我部の興隆にともない、阿波・讃岐の混乱の度合いは増した。阿波国主であり三好家当主であった存保の兄、長治(ながはる)が死んだ。戦死だった。
弟の存保はお燕と讃岐の家来たちを伴って、三好家の本拠地であった勝瑞の地に入り。実質的な阿波・讃岐の国主となった。
勝瑞の地での風流踊りは、そのころのことだった。
平和な時代ならともかく、今は戦国である。
重荷を背負わされた、と言ってもよかった。阿波も讃岐も、長宗我部の侵攻により乱れているのだ。
家来たちにすれば、よくもまあこんな時に踊りなど、と思ったであろうが、存保にすれば今の状況に甘んじてうじうじするのは嫌いだった。だから、ぱっと踊りでも踊って景気づけをしたかったのだろう。
その甲斐あってか、どうにか阿波・讃岐を死守できていた。
が、風流踊りより四年。決戦の時はやって来た。
庇護してくれていた織田信長が明智光秀の謀反、本能寺の変により死んだ。
これにより、十河存保は後ろ盾を失った。
この機を逃すなとばかりに、長宗我部元親は阿波の完全制覇を狙って二万三千の大軍を動員し、勝瑞の地に攻め込んで来ようという。
対する十河軍は、五千。
「来たか」
家中の誰もが、恐怖のどん底に陥った。
今まで散々抵抗してきて、許してくださいとも言えない。
ではどうするか。
城に篭るか、逃げるか。
幸いにして、明智光秀はすぐに羽柴秀吉に討たれ。その羽柴秀吉と誼を通じることが出来たので、後ろは気にしなくてもよい。
淡路島には秀吉の家来、仙石(せんごく)秀久(ひでひさ)が控えて。四国の動向に目を光らせて、いざとなればすぐに出陣が出来るように態勢を整えている。
「やるか」
軍議で存保は言った。
一同驚いた。
「土佐勢は二万を超えると言うのに、こちらは五千。ここは城に篭って秀久殿のご出陣を待てばよろしいかと」
と言う様な、援軍を期待して篭城しよう、という意見が多かった。が、存保は受け入れない。
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