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水戸さんと別れてから、叶さんにすぐにメールをした。すると『私からも話があるので自宅に来て下さい』という返信があって、足取りの重いまま叶さんの家に向かった。
シンプルな中に見え隠れする心情が正直怖い。第一声、まずは何から話したらいいかな。掌に変な汗をかきながら懸命に考えたのだが、気がついたら叶さんの家の扉の前に立っていた。
いつものようにピンポン、ううっ……まだ頭の中が整理されてないのに、反射的に押してしまった。
中から鍵を外す音がして扉が開き、叶さんが顔を出す。
「どうぞ」
微笑みながら、中に入れてくれた。
だけどその笑みはいつも俺に見せてくれるものではなく、明らかに営業用のスマイルだった。これをされると叶さんが何を考えているのか、皆目検討がつかなくなる。
見えないバリアを作らせたのは俺自身なので、しょうがないのだけれど――。
「お邪魔します……」
覚悟を決めて中に入るしかない。
先に中へ入っている叶さんの後ろ姿を、つい見つめてしまう。
今、どんな顔をしているんだろう? まさやんから送られてきた写メのように、悲しそうな顔をしているんだろうか。
「話って何?」
俺に背を向けたまま話を切り出す叶さん。変に隠してもしょうがないので、例の写メを見せる。
「このことについてなんだけど……」
「へえ、フォーカスされたんだ。キレイに撮られてる」
にっこりしながら言う叶さんに、口を開こうとしたら、
「何でも会長の孫娘と仲良くお付き合いしているんだって? 果ては社長にでもなるつもりなの?」
「そんなつもりはないです」
「しかもこんなに可愛らしい子と結婚ができるなんて、夢のような話じゃない。社長の愛人っていうのも、案外悪くないかもしれないわね」
自嘲気味に笑う叶さんの目が全然笑ってない。
「俺、この子とは付き合ってないよ……。だって」
「並んで歩いてる姿、すっごくお似合いだったよ。私なんかよりもずっと」
俺の話をさっきから遮り、本音を話させてくれない。最初から用意された台詞を、淀みなく話しているみたいだ。
「でも愛人って辛いんだよね。会いたいときは会えないし、誰にも見つからないようにしなきゃならないから、かなり神経を使うし。リスクばかりでいいことがないの」
「叶さん……」
過去の自分を思い出しながら語る姿に、胸がしくしくと痛む。
「私はね、人一倍我が侭だから……。私ひとりにだけ愛が欲しいよ、賢一」
俺の顔をじっと見つめる。その想いに応えるべく、気持ちを込めて告げてあげた。
「俺は叶さんだけを愛してるよ」
嘘は言ってない。俺の中ではいつでも叶さんが1番なんだから。
「じゃあ証明して」
「証明……」
(うっ、何をどうやって証明したらいいんだ?)
むむっと少し考えて、叶さんを抱き締めようと手を伸ばしてみた。
「安易!」
怒った声に、伸ばしかけた手が止まる。冷たい言葉と視線に、体が固まってしまった。
「賢一のことだからどうせ、人の恋路に首突っ込んだか何かしたんでしょ?」
その質問に首を縦に振るしかない。言葉が何も出なかった。
「そんな余計なことをするヤツは、馬に蹴られて死んじゃえばいいわ」
「叶さん、俺まだ死にたくないです」
「私に誤解されるような行動を、人様のためにどうしてできるの?」
呆れた顔して俺を見る。
「だって困ってる所を助けてくれたから、今度は俺が助けなきゃって思って」
「お人好し、お節介!」
「だって……」
「私が同じようなことをしてそれを賢一が目撃したら、どんな気持ちになる?」
まさやんから添付された、叶さんの悲しそうな顔を思い出す。きっと俺も、あんな顔をするんだろうな。
「でも後からきちんと話して誤解を解けば、俺は許せます」
「私はね、許せない。どうして、最初から説明してくれないの?」
「だって叶さん、人の恋愛に首を突っ込むのをイヤがるじゃないか……。止めておけって言うのが分かってるから」
俺がそう言うと、腕組みしてうんうん頷いた。
「賢一、楽譜の強弱記号覚えてる? FとかMPなんか」
唐突な話題転換に、一瞬頭がこんがらがる。
「えっとFはフォルテで、MPはメゾピアノ?」
うろ覚えだったけど、意味までは分からない。どちらかが強くだろうな――
「正解。フォルテは強くでメゾピアノはやや弱く。そして賢一はPianoなんだよね……」
「俺がPiano? 弱いってこと?」
俺が不思議そうな顔をすると、叶さんはとても悲しそうな眼差しで見つめてきた。
「Pianoって弱くの他に、優しくっていう別の意味があるの。賢一は私だけじゃなく、他の人についても対等に優しいよね」
「叶さん?」
「そんな優しい賢一だから好きになった。私だけじゃなく水戸さんや他の人達も、自然と賢一の周りに集まる。賢一が他の人に優しくすればする程、私との距離が遠くなるんだよ」
賢一の奏でる優しいメロディを聴くことができたのは、はじめは私ひとりだったのに、気付けばたくさんの人に大好きな彼は囲まれていた。
そして私は今、かやの外にいる――
「俺だって叶さんを独占したいんだ。俺の知らない所で、どんどん偉くなっていってる……。このままだと手の届かない存在になりそうで、何だか怖いんだ」
俺は初めて自分の意見を言ってみた。
「はっ、そんなの会社での地位の話じゃない」
「俺だって男なんだ。少しでも叶さんに近づきたいと思うのは、当然だろ」
「だったら、この孫娘と結婚すればいいでしょ。将来を約束されたも同然なんだから」
「嫌だ、俺は叶さんじゃないとダメなんだから」
きっぱりと断言した。
「賢一が周りにお節介焼かなければ、結婚してもいいわ」
そんな折衷案を出してきたのだが、俺は迷うことなく答える。
「それは無理……」
困ってる人を見捨ててはおけない。
「やっぱりね、そう言うと思っていた。優しい賢一だから……」
「これが噂に聞く価値観の相違だね。恋人たちが別れる原因になっちゃうヤツ」
好きなのに相手を思いやるとキズつける。愛すれば愛する分だけ、お互いの距離を遠くする。
どっちも譲れない想い――
「さよなら……しようか」
「俺もこれ以上、叶さんを傷つけたくない」
――守るためのさよなら。
どちらともなくぎゅっと抱き締めあって、互いのぬくもりを確認した。これが最後の抱擁。そして――
「さよなら、叶さん……」
その言葉を合図に、背を向けるふたり。振り返ることはなかった。
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