Piano:それぞれの時間

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***   「中林チーフ、受付からお電話です」 (集中しなきゃならない仕事中に、一体誰なのよ? しかもアポなしじゃない!)  ちょっとイライラしながら、電話に出る。 「もしもし、中林ですっ」 「受付です。アポなしなんですが、どうしても話をしたいと○○会社の鎌田様がお見えなんですが……」 「○○会社? そんな会社、聞いたことがないわ。鎌田さんのフルネームは?」 「えっと鎌田……まさひと様だそうです」  その名前を聞いて、やっとピンときた。まさやんくんじゃない! 彼がわざわざ来るってことは、賢一に何かあったんじゃ……。 「会うから、そのままロビーに待たせて下さい」  デスクの上を適度に片付けつつはやる気持ちを抑えて、その場をあとにする。  エレベーターを待つのがもどかしくて、階段を使って一気に下まで降りた。 「突然お邪魔して、申し訳ないです」  私の顔を見るなり告げられた、第一声のまさやんくんのセリフ。きっちり頭を下げることを忘れない。  いつもとは違うその真摯な姿勢に、言葉を出せなかった。 「随分と酷い顔をしてますね、肌の色つやも悪い。この間会った病人のときの方が、いい顔をしていましたよ」 「色つや悪いって本当にアナタって、失礼なことを平気で言うのね」  さっきは謝っていたくせに、途端に毒づくこの態度。  しかし今日にいたっては、ニコリともしない。だから尚更ザックリとくる。 「まぁアナタが酷い顔をしていようが、俺にはまったく関係ないんですがね」 「今日はわざわざ、それを言いに来たんじゃないんでしょう?」 「ええ、お礼を言いに来たんです」  口元をほころばせるがメガネの奥の瞳は、まったく笑っていなかった。  喜んでいるように見えない……。一体、何?  冷たい眼差しに、言葉を失っていると、 「賢一が今、スゴイんですよ」  なんでいつも使っている、けん坊って呼び名を言わないんだろう。しかも賢一という言葉を聞いただけで、胸がぎゅっと絞られてしまう。  まさやんくんの視線にどうにも居たたまれなくなり、思わず俯いてしまった。 「名前を聞くのも辛いですか……。じゃあ何で自分から、別れを切り出したんです?」  渋々顔を上げると、腕組みをしたまさやんくんがいた。まるで上司に叱られている、部下の気分――。 「アナタのその不抜けたツラと違って、賢一は仕事に打ち込んでます。鬼人のごとくにね」  賢一……頑張ってるんだ。 「部屋もキレイさっぱりアナタの私物を片付けて、いつでも新しい恋人を迎い入れる準備もできている」  ドクンと心臓が鳴る。新しい恋人―― 「ああ、一応付け加えるけど別れるきっかけになったあの女は、別の男と付き合うことになった。賢一がわざわざ手助けしなくても、大丈夫だったらしい」 「…………」 「賢一の人の良さには困ったもんだ。でもそれ以外に関しては、アナタにお礼を言わなければならない。アイツの仕事のスペックが高いのは、アナタの教えがあるだろうから。お陰でいい仕事ができる」  そして満足げに微笑んだ、まさやんくん。 「大学時代から、アナタの傍にベッタリいたんだ。仕事に対する姿勢や考え方、その他マナーなんかをきっちり仕込んだんでしょう?」 「そんな……私はきっちりになんか、仕込んじゃいないけど」 「賢一がよく、俺に泣きついて来てました。叶さんが厳しい過ぎるって。だがアイツは変なところでドジを踏むから、ボロが出ないように、教育という名の調教をしていたんでしょうね」 「調教って……」 「俺の目から見たらアナタたちは恋人というよりは、主従関係に見えましたが?」  さらりとヒドイことを言う、まったく遠慮なし。だけどあながち間違いでもないので、あえて否定をしなかった。  そんな私の様子に片側だけ口角を上げて、笑いながら話し出した。 「主人の言うことを忠実に聞く賢一犬は、自らを手放したご主人様を怨むこと無く泣くこともなく、毎日仕事を頑張っていました」  賢一がなぜか、犬になっている……。でも想像すると、何となく似合ってる気がした。  物語仕立ての話を、苦笑いしながら耳を傾けてみる。 「ある日賢一犬は、大きな仕事に行き詰りました。仕事相手が言いました。『君のような賢い子に、ぴったりなご主人様がいるんだけど』と。仕事が成功した暁には結婚して、新しいご主人様と一緒に会社を立ててみないかって。課長山田賢一の野望、再びって感じです」 「新しいご主人様……」  血の気がスッと引いた。 「アナタが丹精込めて育てた賢一が、ヘッドハンティングされるかもしれない、いい話じゃないですか。ちなみにこの話の仲介人は俺です」 「な、なんで、そんな話……」  喉がカラカラだったけど、何とか言葉を出した。 「資源の有効利用。あんな小さい会社で燻らせておくのは、勿体ない男だから」 「…………」 「アナタが知ってる賢一は、もういない。しっかり地に足をつけて歩いている。後ろを振り返らずに、まっすく前だけ向いて歩いている。それもアナタの教えでしょう?」  そう言うと、目の前にメモ紙を置いた。 「今夜ここで、商談が行われます。時間はそこに書いてある通り。実際自分の目で、賢一を確かめてみたらどうです? 今のアナタの顔を見たら、間違いなく軽視するでしょうけど」  椅子から立ち上がったまさやんくんを見送らなきゃならないのに、立つことができなかった。体が固まって、指先ひとつすら動かせない。ただ目の前にあるメモ紙から目が離せなかった。 「それじゃあ、中林さん御機嫌よう」  爽やかに去っていく後姿をやっと見た。  振り返ること無く去って行く姿に、賢一を重ねる。  賢一、今アナタは何をしているの? どこを見ているの? 「賢一――」
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