不穏

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「先生……?」  恐る恐る、梨花は呼びかける。しかし牧野は無言のまま、後ろ手にドアを閉めた。ピピ、と電子音がして、自動で退路が施錠される。  ――どうして、電気をつけないの?  訊きたくて仕方ないが、それを口に出したら終わりな気がした。明らかに普通じゃない。付いて来たことに後悔しながら、梨花は必死に逃げ道を探していた。  薄明かりに浮かぶ牧野が、ゆっくりと近づいてくる。  見るたびに胸がときめいたはずの長身。すらりと伸びた手足。なのに今は、それらが逃れることのできない檻に見える。 「梨花」 「……っ、は、はい」  ふわり、と風が動いた。硬直して動けない梨花を、牧野の身体が包み込む。その抱擁は優しく、熱く、思った以上に心地良い。突然のことに驚きながら、梨花はわけがわからなくなっていた。 「え、あの、先生っ?」 「……梨花」  彼女を呼ぶ声が、甘く切ない。今までの冷たさが嘘のようで、そのギャップに戸惑う。 「っ、はい……」  牧野から薄くサンダルウッドが香った。さっきから高鳴っていた梨花の胸が、いよいよどうしようもなく激しさを増す。  だから梨花は、その痛みが何であるかを理解するのに、しばらくかかった。 「っう――」  無意識に声が漏れ、足の力が抜ける。息ができないほどの苦しみが、みぞおちから全身に駆け巡る。
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