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「あら?」
家へと戻る途中、道ばたで誰かが捜し物をしていた。綾子が今朝、口紅を拾ったところでだ。知らない人ではなかった。近所に住む自称、博士だ。博士と皆が呼んでいるが、本当に博士号をとったのかは、綾子は知らなかった。
「こんばわ、博士」
「綾子さん。こんばんわ」
「どうしたんですか?こんな夜遅くに、奥さんに叱られますよ」
「分かっている。だから、こうやって探しているんだ」
博士は街灯の明かりと、頼りない懐中電灯の明かりで何かを探しているようだった。綾子には心当たりがあった。
「いったい、何を探しているのです?」
「口紅だよ。あれがないと・・・」
博士はぼやくように言った。
間違いない。博士は今朝、綾子が拾った口紅を探しているのだ。いつ落としたか知らないが、夜になって気付いて探しに来たのだろう。
「綾子さん。この辺りで、口紅を見ませんでしたか?箱に入った綺麗な口紅を・・・」
「い、いえ。口紅ですか?私は見ていません。すみません。明日、仕事があるので」
綾子はとっさに、自分の口元を隠して、逃げるようにして博士の前から立ち去った。
「どうしよう。思わず、見ていないと言ってしまったけど・・・」
綾子は博士が見ていないところでバックから口紅を取りだした。口紅の所有者は博士でほぼ間違いない。正直に返せば笑って許してもらえそうだったが、博士のだと知ると、返すのがますます惜しい気がしてきた。自称とはいえ、博士の持っていた口紅だ。どこの製品かも分からない様子からすると、博士が作ったモノだろう。だとしたら、今日一日、周りから誉められたのは口紅効果だと思われる。
もう少しだけ、口紅を使わせてもらいたかった。
幸い、街灯も少ない通りだったので博士は綾子が口紅を使っていたことに気付いていなかった。けれど、朝になれば口紅を塗っているのが分かってしまう。なにせ、市販の口紅にとは色合いがまるで違うのだから。
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