口紅

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 言われてみれば、最近、会社にきてからあまり喋っていなかった。以前は時間があれば、仕事中でも同じ女子社員とお喋りをしていたというのに。けれど、このところは、お喋りをする気にはなれなかった。そのおかげで、上司から注意を受けることは無くなっていた。 「それだけ、私が成長したってことじゃないかしら」  化粧一つで、女の印象というのは変わると言われている。きっと、この美しい口紅のおかげで、物静かで美しい大人の女性になれたのだろう。綾子はそう思った。  その日の帰り道、綾子はいつもの道を歩いていた。あれから何日も経ったので、さすがに、博士の姿はない。今頃は無くした口紅を作り直しているのだろうか。 「待て」  綾子が街灯の下に差し掛かった時だ。彼女を呼び止める声がした。誰だろうと振り返ると、彼女の後ろで顔をマスクとサングラスで隠した怪しい男が立っていた。 「俺は強盗だ。殺されたくなかったら、持っている金をよこせ」  男は手にもっていたナイフの刃先を綾子に向けて脅してきた。 「あ、あ・・・」  ナイフを突き付けられた綾子は恐怖で顔を真っ青にして、その場から逃げ出した。 「待て!」  逃げる綾子を男は追いかけてきた。  逃げなくては捕まってしまう。お金を出して、見逃してもらうことはできるだろうか。それは、無理だろう。男は綾子を追いかけてきている。お金だけが、目的なら逃げる相手を追うような真似はしない。もし、交番に逃げ込まれでもしたら、すぐに捕まってしまうからだ。 「た、た・・・」  綾子は力の限り声を上げて助けを求めようとした。ところが、 (こ、声が・・・!)、出なかった。  助けを求めたいのに、高い声が出ない。普通の声ならば、 「助けて!」と出るのに、大きな声、高い声になると口がそれを拒絶するかのように閉じられた。  どうして、叫べないのか分からない。家まで、まだ数百メートルはある。走りきれる自信はなかった。
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