第1章

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母は、いたって普通の、どこにでもいる娼婦だった。 だから、僕の父親が誰なのか、分からない。 それでもよかった。母がいたから。 僕が寝てから仕事をする。僕が起きるまでには帰ってきていて、朝ごはんを作って待っていてくれる。 ひどく訛った言葉だった母は、僕に熱心に、母とは違う言葉を教えた。僕は母と同じ言葉を話したかった。けれど、大好きな母が望むなら、と思って頑張った。 母は口癖のように、ごめん、と言った。最初は僕も、いいよ、って言っていたけど、そのうち、ありがとう、って答えたほうがいいのがわかった。僕が、ありがとう、って答えると、母はきまって笑ったからだ。 正直、貧しい暮らしだった。 ちゃんとした服は着たことがなかったし、ご飯でお腹がいっぱいになったことがない。すこしでもお腹をいっぱいにしたくて川の水を飲んだこともある。…もちろんお腹をこわした。 でも、幸せだった。 これ以上ないくらいに、幸せだった。 母は僕に、翼をくれた。 でもある日、目が覚めてもご飯のにおいがしなかった。 慌てて起きても、そこに母はいなかった。 においもしないほど冷えきったかたいパンだけが、寂しそうに、埃に食われているところだった。 慌てて表に飛び出しても、誰もいなかった。 母だけじゃなかった。 隣のミーシャも、向かいのアルムも、斜向かいのエヴァンズもいなかった。 知らない場所のように静かで、僕の呼吸と心臓の喚き声だけがばかにうるさかった。吐きそうだった。 母さん、母さん 僕の声に似た、誰かの声が聞こえた。 誰だよ、どこにいるんだよ。 辺りを見渡せど見えない声の主、それはそうだ。僕が僕を見ることなどできようがない。 母さん、父さん、助けて、誰もいないんだ 母さんも父さんもミーシャもアルムもエヴァンズもルディアもトムも、誰も、いないんだよ ひとりぼっちになっちゃったんだよ ねえ、母さん、父さん ーーー 日射しに弱い肌が赤くなり、じりじりと痛みはじめたころ、ずっとうずくまっていた少年はようやく立ち上がる。 痛い。その痛みは焼けた肌が発するものか、爛れかけた目が発するものか、それとも砕かれたこころが発するものか。 もとのように、ぼろぼろの布を何枚も重ねて遮光されている家におさまった彼は、ただ静かに、じっと、日が落ちるのを待った。
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