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母は、いたって普通の、どこにでもいる娼婦だった。
だから、僕の父親が誰なのか、分からない。
それでもよかった。母がいたから。
僕が寝てから仕事をする。僕が起きるまでには帰ってきていて、朝ごはんを作って待っていてくれる。
ひどく訛った言葉だった母は、僕に熱心に、母とは違う言葉を教えた。僕は母と同じ言葉を話したかった。けれど、大好きな母が望むなら、と思って頑張った。
母は口癖のように、ごめん、と言った。最初は僕も、いいよ、って言っていたけど、そのうち、ありがとう、って答えたほうがいいのがわかった。僕が、ありがとう、って答えると、母はきまって笑ったからだ。
正直、貧しい暮らしだった。
ちゃんとした服は着たことがなかったし、ご飯でお腹がいっぱいになったことがない。すこしでもお腹をいっぱいにしたくて川の水を飲んだこともある。…もちろんお腹をこわした。
でも、幸せだった。
これ以上ないくらいに、幸せだった。
母は僕に、翼をくれた。
でもある日、目が覚めてもご飯のにおいがしなかった。
慌てて起きても、そこに母はいなかった。
においもしないほど冷えきったかたいパンだけが、寂しそうに、埃に食われているところだった。
慌てて表に飛び出しても、誰もいなかった。
母だけじゃなかった。
隣のミーシャも、向かいのアルムも、斜向かいのエヴァンズもいなかった。
知らない場所のように静かで、僕の呼吸と心臓の喚き声だけがばかにうるさかった。吐きそうだった。
母さん、母さん
僕の声に似た、誰かの声が聞こえた。
誰だよ、どこにいるんだよ。
辺りを見渡せど見えない声の主、それはそうだ。僕が僕を見ることなどできようがない。
母さん、父さん、助けて、誰もいないんだ
母さんも父さんもミーシャもアルムもエヴァンズもルディアもトムも、誰も、いないんだよ
ひとりぼっちになっちゃったんだよ
ねえ、母さん、父さん
ーーー
日射しに弱い肌が赤くなり、じりじりと痛みはじめたころ、ずっとうずくまっていた少年はようやく立ち上がる。
痛い。その痛みは焼けた肌が発するものか、爛れかけた目が発するものか、それとも砕かれたこころが発するものか。
もとのように、ぼろぼろの布を何枚も重ねて遮光されている家におさまった彼は、ただ静かに、じっと、日が落ちるのを待った。
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