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コーヒーの香ばしい匂いが鼻を撫でると、もう男の愚痴っぽさはなくなっていた。この雨も、暑苦しい服さえも恋しくなってくる。満足げに男はコートの前ボタンを外し、ばさりとそれを脱ぎ捨てた。
男が外で此処まで装いを解くのも珍しい。それはこの店に心底満足した男が見せる、安心の証とも言えよう。家犬が腹を晒して寝るみたいだな、と自然ととった自分の行動を嘲笑するように、男は表情を緩めた。
メニューを手に取る。様々な種類のコーヒーの他にも、紅茶やココア、ソフトドリンク等がある。更にメニューの中を覗けば、デザートは軽食は勿論、がっつりとしたランチメニュー等も揃っている。「日替わりメニュー」などがあるのも男の目を惹いた。
「お待たせ致しました」
コーヒーが運ばれてくる。白い皿に白いカップはシンプルで清潔感がある。目の前に置かれると、よりコーヒーの香りは際立った。すっと鼻の前でコーヒーを踊らせ、男はそのまま口をつける。
思わず鼻から息が抜けた。すっきりとしていてコクが強い。後から来る苦みは程よく、後味が全く悪くない。何より店に入った時から漂っていた香りは、口を通してから更に心地良い安らぎを男の中に運んできた。
コーヒーも美味しい。男にとって此処まで来ればもう文句のつけようもない。
「……っはぁ。こりゃ溜まらんわ。飯も食ってっちまうか」
メニューを開いた時から気になっていた本日のランチ、『ハンバーグシチューランチ』をまじまじと見つめながら、男はふふんと楽しげに鼻を鳴らした。
メニューをまじまじと見つめる男は、その時気付いていなかった。
いつの間にか店の奥から歩み出てきて、傍でまじまじと見つめてきている、小柄な少女が居た事に。
「綺麗な目ですのね」
唐突な声にコートの男は方をびくりと震わせた。
黒く長い髪には紫色のメッシュ。同じく紫色のカラーコンタクト。ゴシック調の服も黒に紫混じりと徹底した「黒と紫」への拘りっぷり。それだけで少女は印象深かった。
更に特徴的なのは装いの黒々しさから浮き立つような白い肌に刻み込まれた左目下の紫色。花のタトゥだろうか。
「紫苑」
男がタトゥに見入っていると、少女は短くそう言って、くすりと笑った。
「私の名前ですわ」
恐らくタトゥもその花なのだろう。
「ピュニシオンへようこそ」
男はこうして少女と出会った。
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